書評
『服従』(河出書房新社)
神なき現代において精神的に満たされぬインテリは何によって救われるのか?
ミシェル・ウエルベックは、今現在世界でもっとも偉大な作家でも、もっとも売れる作家でもないかもしれない。だが、現代でもっとも重要な作家であることはまちがいないだろう(ぼくがそう思っている作家はあと2人いて、それはチャック・パラニュークとウラジーミル・ソローキンである)。その現代性があらためて注目されたのは最新作『服従』がフランスで発売されたときだった。2022年、フランスにイスラーム教徒の大統領が誕生するという筋書きの『服従』が発売される当日、風刺雑誌『シャルリー・エブド』がイスラーム教徒のテロリストに襲撃され、10名を超える死者を出す事件が発生したのである。まさしくこれこそ「予言的作品」だ、と大いに騒がれたのである。だが、もしも事件があったから現代的なのだと考えている人がいれば、それは大間違いだ。そもそも『服従』はディストピア小説ではあれど、反イスラーム的な小説ではない。そこに訪れる危機はあくまでも西洋近代社会に内在されるものであり、どちらかといえば西欧近代社会の脆さを描いたものだからである。イスラーム教はそれをあからさまにするきっかけにしかすぎないのだ。もちろん、それこそがウエルベックが現代的だという理由である。
『服従』の主人公「ぼく」はソルボンヌ大学で文学を教える大学教授である。世紀末作家J・K・ユイスマンスの研究家として若き日から注目され、学問的業績を着々と積んでいる。私生活では魅力的な若い女性と付き合っているものの、結婚に興味を持てないまま別れてしまう。そんな折り、大統領選挙は思いがけぬ接戦となり、右翼国民戦線のマリーヌ・ルペンと穏健なイスラーム教徒イスラーム同胞党のベン・アッベスが決選投票に勝ち残る。社会不安が高まり、大学が閉鎖される中で、「ぼく」もまた精神的危機を迎えてしまう。
「ぼく」はウエルベックの小説にはおなじみの、近代社会の中で精神的に満たされないインテリである。唯一の快楽はセックスにしかない。かつては神が人を救ってくれたのかもしれない。だが神なき現代にあっては、人が自分を超える手段など存在しない。セックスも単なる刺激となり、やがてはすり減っていく。もはや自分を救ってくれるものは何もない。
現代人は失敗しているのではないか? それがウエルベックの危険な問いかけである。現代は失敗なのではなかろうか? ウエルベックが危険なのはイスラームが危険だからと煽るからではない。むしろそれこそがこの行き詰まり、我々みなが押し込まれてしまった限界から連れ出してくれるものなのかもしれない、と誘惑するからなのである。
異常なまでにさくさくと読みやすい物語で、ウエルベックは「ぼく」にとっての可能性をひとつひとつつぶしていく。ガールフレンドと別れたのち、「ぼく」の大学での将来にも暗雲が差し込める。イスラーム政権によってイスラーム化が進展した大学教育には世紀末の退廃作家を教える枠などというものはもうないのだ。早すぎる隠退生活を強いられた「ぼく」は、救いの道を探すのだが……。
そもそもユイスマンスは世紀末の耽美派であり、快楽主義者であったが、のちにカソリックに復帰している。近代的自由を捨てて幸福を得た作家なのである。ウエルベックは問いかける。人は自由を求めてきた。自由を求めて王を殺し、神を殺した。だが、本当にそれで現代人は幸福になったのだろうか? この小説が本当に恐ろしいのは、その答えが説得力をもって迫ってくるところである。現代人は、実は自由など求めていないのかもしれない。敗北し、“服従”することこそが望みだったのかもしれない。
ウエルベックは自由の国フランスでそれを言う。だがもちろんその問いは日本にいる我々にも向けられるだろう。それこそが『服従』がもっとも危険な小説である理由なのだ。
【単行本】
映画秘宝 2015年12月号
95年に町山智浩が創刊。娯楽映画に的を絞ったマニア向け映画雑誌。「柳下毅一郎の新刊レビュー」連載中。洋泉社より1,000円+税にて毎月21日発売。Twitter:@eigahiho。