書評
『俳諧の詩学』(岩波書店)
世界文学の視野から短詩型文学再考
俳句は日本にとどまらず、海外でも愛好者が多い。欧米の高校ではハイクが作られ、中国にも「漢俳」という短詩がある。いまやすっかり「世界の俳句」になった感があるが、もとをたどれば、「俳諧の連歌」の「発句」で、正岡子規を中心とする改革運動により、連句は切り捨てられ、発句のみ作られるようになったのがきっかけだ。五七五という極端に短い詩型はなぜ詩歌の様式として成り立つのか。詠嘆の対象となる季節はなぜ秋に偏重し、切字(きれじ)は果たして「切り離す」役割があったのか。連歌にみられる文脈の断絶は記号間の形式的な関係とどう呼応するか。日本ではあたりまえのように思われていることや、そもそも考えられてもいないようなことは、日本語を母語としない読者の立場に立って考えてみたり、あるいは外国文学と比較したりすると、たちまち一連の疑問が浮かび上がってくる。
著者は博識な比較文学研究者で、英文学やフランス文学にも精通している。西洋文学という補助線を引いて、日本の短詩型文学を新しい視角から捉え直そうとした。
詩型論、詩語論、近代俳句論の再検討の三部構成だが、詩の形式についての思考の旅は、小さな問いかけから始まった。
俳句のような短詩はなぜ西洋の詩にない情趣を表現できるのか。ここで文化特殊論の落とし穴が待ち受けているが、本書はむろんそのような安易な文化類型論と無縁である。反対に、日本の文脈からいったん離れて、世界文学の見地から、まず詩とは何かを探ろうとする。
詩はたんに意味を伝えるためではなく、言語表現そのものに関心を集めるという機能を備えている。新鮮な言葉の回り道を楽しむなかで、美的想像力が絶えずかきたてられるからこそ、詩としての面白さがある。フランスの詩と比較してわかるように、俳句は詩型が短いゆえに、詩以外の要素を持ちこむ余地はない。その分、かえってもっとも詩の名に相応(ふさわ)しいものになる。
日本の詩歌伝統にあらわれた「秋」や、芭蕉における「桜」の表現についての論考にも目が覚めるような卓見がちりばめられているが、とりわけ俳諧をめぐる切字論や、連句における意味の拡散についての考察は俳句の精神を理解する上で、きわめて示唆に富む。
切字について、著者はかつて必ずしもその直後で句を「切る」のではなく、係り結びのように、その勢いの及ぶ限界の後で句を切る場合が多い、という画期的な見解を示した。本書ではその説が修正・補強され、歴史的変遷を検証した上、リズム的な表現効果を指摘して、さらなる展開の可能性が示唆された。
連句において、打越(うちこし)、前句と付句の関係に見られるように、句と句のあいだに意味上の断絶がある。世界のほとんどの文学では、作品内部において意味が一つの方向へと収斂(しゅうれん)していくのに対し、連歌の場合、意味の連続性を断ち切ることが技法として求められている。
この特殊な手法の底層に流れる発想法を探るために、著者はしゃれや掛詞(かけことば)の表現慣習とその移り変わりを吟味し、さらには言葉遊びの構造とも比較した。そこで、連句はたんにアドリブの連続ではなく、そこにはある程度定まったシナリオがあることが明らかになった。
俳句についてはこれまで数えきれないほどの論考が刊行されているが、本書は多様な視点から問題を捉え、表現の形式と意味論の両面から短詩型の美学に迫ろうとしているところに特徴がある。緻密な作品分析を通して、日本の短詩型文学の魅力が鮮やかに読み解かれている。