書評

『含羞のエンドマーク―前田陽一遺稿集』(あすなろ社)

  • 2022/09/08
含羞のエンドマーク―前田陽一遺稿集 / 前田 陽一
含羞のエンドマーク―前田陽一遺稿集
  • 著者:前田 陽一
  • 出版社:あすなろ社
  • 装丁:単行本(369ページ)
  • ISBN-10:4870340844
  • ISBN-13:978-4870340848

花や風と同化して貫いた人生

木々の影を映す疎水が流れ、白壁が続く道の行く手に天守閣が見える。播州(ばんしゅう)龍野といえば魯山人(ろさんじん)が日本一の折り紙をつけたうすくち醤油(しょうゆ)の町。町をつらぬく揖保(いぼ)川の名にちなんだソーメンの産地としても知られる。そんな土地柄だけに味にうるさい。中学生のくせにウニと卵の黄身で燗酒(かんざけ)をチビッと飲(や)る友達がいた。それよりもトンカツ、カレーライス、炒飯(チャーハン)といったありきたりの食べ物の妙味を何の衒(てら)いもなくすらりと書く、純綿のような肌触りの文章がごちそうだ。

その龍野生まれの前田陽一。ご存じだろう。六、七〇年代松竹喜劇映画を何本も撮り、映画界が斜陽になると横浜の職安の前で立ちんぼして港の日雇い労務をしたこともある伝説的な映画監督。五年前に肝臓癌(がん)で急逝した、享年六十五歳(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆年は2003年)。晩年に龍野高校時代の文学仲間と再開した同人誌に書いたエッセイを中心にまとめた遺稿集が本書である。

もともとが文学青年で、映画界入りはまぐれだった。だから交友録は文学・映画の両界にまたがり、浦山桐郎、三浦哲郎などが登場して、同世代の人間にはなつかしい。しかし何といってもすごいのは余命一週間と宣告されてからの絶筆日記「THE LASTDAYS」。どうすごいか。ふだんとちっとも変わりがないところがすごいのである。

ちなみにこの人には独特の宇宙観があった。風のそよぎや星のまたたきは、<1/fのゆらぎ>という宇宙の始まりの気持ちのいいゆらぎの入れ子であり、人間の死もそのゆらぎに還(かえ)る過程にすぎないという。だから死んでもその気になれば風や星になって地球に帰ってこられる。幼い子に父親がそういって聞かせるシナリオの部分を絶筆の末尾に付加してから、最後の映画のクランクインに入り、医師の予告通り、一週間目に撮影現場で倒れてそのまま逝った。

いい本を読んだ。おりから季節は春である。町がまるごと緑の母胎のような故人の故郷龍野には及ばずとも、野には花が咲き光はみなぎり、風は純綿の肌触りで頬(ほお)をかすめる。そうか、前田陽一がきてるんだ。
含羞のエンドマーク―前田陽一遺稿集 / 前田 陽一
含羞のエンドマーク―前田陽一遺稿集
  • 著者:前田 陽一
  • 出版社:あすなろ社
  • 装丁:単行本(369ページ)
  • ISBN-10:4870340844
  • ISBN-13:978-4870340848

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初出メディア

朝日新聞

朝日新聞 2003年4月20日

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