土とコテで作った怪作、力作
日本でも中国でもヨーロッパでも、土や煉瓦(れんが)の壁の上に白い漆喰(しっくい)を塗って仕上げることが大昔から行われていた。日本なら、高松塚の中は総漆喰塗りだし、法隆寺の壁もそう。そして、白い壁を見ると何か描きたくなるのは人情で、大昔の人は仏様や宮廷生活なんかを描いた。こうした漆喰を下地にする絵のことをヨーロッパではフレスコ画という。日本では何というかというと、相当する言葉がない。言葉が消えたのは実体が消えたからで、高松塚や法隆寺に描かれた後、残念ながら技法は途絶えてしまった。その代わり、漆喰壁の上に和紙を袋貼りして(貼付壁という)筆を走らせる障壁画が栄え、これが日本流の壁画となった。室町、戦国、安土桃山、江戸と和紙の時代が続き、江戸が傾きはじめると、突然、漆喰の絵が現われた。これを鏝絵と呼ぶ。ヨーロッパのフレスコ画の影響があったわけでもなく、成立の事情はどうもはっきりしないが、天保期に活躍を開始する伊豆松崎生まれの左官の長八が、それまで小規模になされていた技法を発展させたものとされている。
鏝絵は、フレスコ画と混同しやすいが、基本的に違っている。フレスコ画も法隆寺の壁画も、漆喰の上に筆と絵具で描いているのに対し、鏝絵は名のとおり筆の代わりに鏝を、絵具の代わりに顔料の入った漆喰を使う。色のついた漆喰を鏝で盛り上げたり塗り込めたりしたのが鏝絵なのである。孤立した日本固有の技法。
にもかかわらずというか、だからというか、伊豆の長八のことを除くと、これまで鐘絵の本は一冊もなかった。そして、現在、ほとんど注目されることもなく、戦前の鏝絵は消滅の時を迎えている。
こうした中でぜひしておかなければならないのは、全国の鏝絵を探し、その魅力を広く伝えることだろう。カメラマンにして鏝絵ファンの藤田洋三さんがその仕事を、各地のファンの協力を得て、やってくれた。
いろんな例が登場する。長岡には壁から戸袋までいたるところを花やら十二支やらの図柄で埋めた土蔵がある。鏝絵は“建築の刺青”といっていいから、これなどはさしずめ総身彫りだ。実際、鏝絵の図柄は刺青と共通性があり、龍、唐獅子、牡丹、虎などが多い。しかし、刺青には絶対にないものもある。たとえば鏝絵の特産地としてファンだけが知っている大分県安心院(あじむ)町周辺には、福禄寿の長いハゲ頭を大黒様の西洋床屋が手入れしている図柄とか、腹を上に向けて泳ぐフグとか、おもしろいものが多い。
もちろん元祖の長八の作も収録されているが、元祖と各地の左官をくらべると、私としては各地の腕自慢の方に軍配を上げたい。長八は、江戸の狩野派に学んだせいか、鏝絵を本当の絵に近づけよう近づけようとする。しかし、しょせんはコテと土の仕事で、線の微妙も色の鮮やかさもかなうわけはない。ところが各地の腕自慢ときたら、虎が猫に変じようが、ブルーの竹が生えようがおかまいなし。鏝にまかせてグイグイ盛り上げ、日本画とは別の表現領域を作り出している。泥くさい、という言い方があるが、泥くささにかけて鏝絵の右に出るものは原理的にありえない。「鏝の使い方を人に盗まれないように筵(むしろ)を巡らせ、のぞかれないように仕事をした、かつての左官の親方達」の力作、大作、怪作を堪能していただきたい。
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