忘れかねる人への想い
「いま、本屋で買ってきたばかりだけど、これはいいよ」大阪から来た友人が待ち合わせの改札口で立ち読みしていた。『石上露子(いそのかみつゆこ)集』(中公文庫)、私も早速、本屋へ向った。
冒頭に明治四十年の詩がある。
小板橋
ゆきずりのわが小板橋
しらしらとひと枝のうばら
いづこより流れか寄りし。
君まつと踏みし夕に
いひしらず泌みて匂ひき。
今はとて思ひ痛みて
君が名も夢も捨てむと
なげきつつ夕わたれば、
あゝうばら、あともとどめず、
小板橋ひとりゆらめく。
声に出して読んでみる。何度読んでも、私は飽きなかった。
石上露子。いそのかみつゆこはペンネームで本名杉山孝子、明星派の歌人だという。明治十五年、大阪富田林の裕福な造り酒屋に生まれた。活発な子で、着るものも「赤気なしの男作り」、髪もかり上げ、ゆく先々でお坊ちゃんといわれたそうだ。
娘ざかりの写真をみると麗人であり、長谷川時雨が「この秀麗(うつく)しき女(ひと)は、うつくしき心を歌に読み、心の響きを十三絃の糸につたへ、河内の国の富田林に、広き家をかまへ、心静かに想(おもひ)にふけつてゐる」と『美人伝』に神話化している。しかし、実物の石上露子は、自我にめざめた、活発な人ではなかったか。
四つ辻をまがる長い袂のふりから真白いゴムまりがころげ落ちた。それをゆきずりの見にくい男の子がひらつてゆく。私はまりになりたくない。(自伝『落葉のくに』)
旧家のお嬢さまとして育ったが、男性の所有物になることを強く忌み嫌っていたように思われる。「心の奥の奥で小さいがするどい声」を彼女は聞こうとした。しかし、この人の実人生は幸福とはいいがたかった。
生母とは生き別れ、血を分けた妹は早く嫁に出されて夭折した。父親には愛されていたけれども露子自身、旧家の跡とり娘として気に染まぬ結婚をせざるを得ず、夫、三児すべてに先立たれている。
作品は二十歳から結婚までに詩一篇、「明星」同人時代の短歌八十首、美文五篇のみ。その多くは娘時代に上京したおり、面影を心に宿した男性への想いをうたっている。
秋かぜに人ぞ恋しきうらめしき死ぬと遠野に別れても猶(なほ)
君ならぬ車つれなう門すぎてこの日も暮れぬ南河内に
山かげは春まだ浅し日もすがら小雪の空に君をこそ思へ
遠く離れた旧家の家督相続人同士。叶わぬ恋であった。しかし、抑圧された慕情は、成就した恋よりもあとをひく。その薄幸が「小板橋」のような、感傷をはるかに越えた絶唱を生んだのである。
それだけではない。結婚後、夫に創作活動を禁止され、二十三年の長い空白ののち、夫と別居して露子は「明星」の後身である「冬柏」に復活する。そこでまたしても、彼女は忘れかねる人への想いをうたう。
思へども長き月日のわりなさに薄れし恋と歎きこそすれ
竹(たか)むらに夕の風のさわぐだにかのまぼろしをふと胸に抱く
二児の母である。嘲りすら感じた夫との葛藤を経て、歌からは大人の女の気持ちがしんしんと伝わってくる。
このゆふべ京の少女に立ちまじり行けどまぎれず己が悲しみ
狂ふまで我を憎める人ありて悲しけれども生甲斐を知る
同じ古い商家に生まれながら、家を捨て、恋と自己表現に賭け得た与謝野晶子、高村智恵子、野上弥生子らの後ろに、何人の、いや何百人の石上露子がいたのだろうか。
書き添えれば、この詩人に打ち込んで集を編んだ松村緑の解説がまた絶品である。
【この書評が収録されている書籍】