書評
『わが息子・脳死の11日 犠牲』(文藝春秋)
脳死状態の息子、2人称の死
切ないが避けて通れないテーマである。自死した著者の次男は脳死状態に陥った。これまで著者は末期癌患者の治療の現場を歩き、また脳死についても多くの論考を発表している。「死の医学」に最も造詣の深い書き手である。その著者の前で、最愛の息子が脳死状態となるという、まさか、が訪れた。僕は二つの意味で身につまされた。こんな場合、父親として、また作家として、いったいどう対処したらよいのか、と。中学二年のクラスでチョークの投げ合いがあった。突然、一個のチョーク片が右眼を直撃した。眼房内出血による激痛で失明の恐れがあり、病院で眼球に直接注射が打たれた。注射針が迫ってくるのに眼を閉じては駄目と言われ、怖さと痛みに襲われたのが心の傷の遠因であったようだ。天真爛漫な明るい少年が内向的な暗い方向へ変わって行く。その後、対人緊張・恐怖が強くなり精神科の治療を受けるようになった。自分が「誰の役にも立てず、誰からも必要とされない存在」ではないかと悩む日々のなか、白血病患者を救う骨髄移植のドナー(提供者)の登録をする。そんなナイーブで心やさしい青年に成長しつつ、大江健三郎や安部公房の影響を受け大学ノートに短い小説を書くようになっていた。そうした文章の幾つかが引用されているが、大江文学のテーマである〈癒し〉を、そうかそういうことなのか、と僕は夭折した青年から教わった気がする。
十一日間の脳死状態のなかで父親は、さまざまに息子との来し方に思いを馳せる。息子の肌は艶があり生き生きとしている。死には、自分がどのような死を迎えるかという一人称の死と、アフリカで百万人が餓死しても昨日と今日を変わらず過ごすような三人称の死がある。医師にとって患者の死は、いかに熱心に治療しようと三人称の死だ。人生と生活を分かち合った肉親との死別は、二人称(あなた)の死である。脳死判定が即、臓器移植であるならば、こうした二人称の死を受け入れる時間が抹殺されてしまう。著者が到達した結論には説得力がある。
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