しっとりとして、あでやかで
宇野千代の『おはん』を高校生で読んだとき、こんな美しい、こんな一字のゆるぎもない小説があるものか、と感じ入った。もと正妻いま愛人という設定も面白かったし、ぐうたらな男のひなびた語り口にも陶然とした。『おはん』はいうまでもなく昭和文学の白眉である。宇野千代は戦前にも『色ざんげ』『別れも愉し』『未練』といった名作を書いたが、戦後はスタイル社社長、きものデザイナーとして活躍し、尾崎士郎、東郷青児、北原武夫らとの恋愛遍歴ばかりが目立っていた。そこに十年もかけた『おはん』のような極上の物語で返り咲いたのである。
この作品は昭和三十二年の野間文芸賞を円地文子『女坂』とともに受けたが、そのときの候補作が、三島由紀夫『金閣寺』、野上弥生子『迷路』、谷崎潤一郎『鍵』、井上靖『射程』、吉川英治『新・平家物語』平林たい子『砂漠の花』石川淳『紫苑物語』などであるのはいかにもすごい。まだまだ文学は元気であり、これらの作品は今日も「生きて」いる。
宇野千代がどんなに派手な生き方をしても、私には『おはん』を初読以来の尊敬がある。アモラルとかアブノーマルとか男好きとの評は多いが、彼女ほど倫理的かつ道徳的な作家はいないし、また純文学を信じて精進し寡作を守った作家もめずらしい。いや、そのことが志の高さを示すといいたいわけではない。
宇野千代の小説には慰めがあり、知的であり、自分をつき放す爽快感があり、こんな風に生きてみたいと思わせる強さとカッコ良さがある。どんなときも恨みや愚痴をいわず、何ごとも前向きに解釈し、事態を好転させていく。この国では丸山真男のいう基底体制還元的な、何でも世の中が悪い、男社会が悪いのよ、という湿った恨み節が幅をきかせているが、宇野千代はそうして自分を免罪するのを潔しとしなかった。徹底してセルフヘルプの人であり、たしかに天は自ら助くものを助けたのである。
だから宇野千代はいつも幸福であった。
七年前に婚を解いたとき、私だって人並みに一ヵ月くらいは泣き暮したのであるが、部屋の隅に転がっていた文庫本の『生きていく私』がどんなに力づけてくれたか(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は1997年)。この本を支えにして、私はまたすっくと立ち上がることができた。
人が聞いたら、吹き出して笑って了うようなことでも、その中に、一かけらの幸福でも含まれているとしたら、その一かけらの幸福を自分の体のぐるりに張りめぐらして、私は生きて行く。
「よくぞ生んでくれた」という見出しでこの本は始まっている。別れた男はもちろん、賭け事の好きだった父親や継母の悪口はみじんもない。この全肯定主義のさわやかさ。
少し彼女の言葉を聞こう。
相手の男に自分が重荷になった時は別れてやらねばいけない。それは武士のたしなみだと思うんですよ。
一日一晩も泣き続けにわあわあ泣くと、なんというのでしょう。頭がからっとして、まるで憑き物がおちたように、けろっとした気持になるのです。
東郷でも北原でも別れたあとで「いい女だった」とほめてくれました。ほんと別れる名人。こんな便利な女いませんでしょ。
一般に女は、自分をふしあわせにするような考えばかりするけど、男にだまされるという楽しさもあるのですよ。
恋愛のみならず、老いについても宇野千代は絶望を知らなかった。
七十に近くなって、人生の上で、こんなことがわからなかったのか、と気づくことがよくあります。
お化粧をするのは、私はおばあさんではない、と暗示をかけたいためです。人間が心で思っていることは、どんなこともすべて顔に出ます。
私の尊敬する人によると人間素直な気持ちで生きれば百二十五歳まで生きられるそうです。
私はね、年の多いのが自慢なのよ。ふつう女は年をかくすでしょ。私は、もう少し余計に年をいいたいんだけどバレちゃってるからね。
あたしは何だかこのごろ死なないような気がしてきた。
晩年の宇野千代は「幸福教」教祖として絶大な人気があった。そのことが数々の名作の影を薄くしたようにいう人もあるけれど、そうは思わない。あれだけ多くの人の心を励まし、明るくした彼女は偉大な人である。
付け加えれば、『おはん』『色ざんげ』『人形師天狗屋久吉』『日露の戦聞書』『天風先生座談』に見られる、対象への浸透圧の高さ、すなわち取材者としての天才に、聞き書きを事とする私は学びたい。
正直に天真爛漫に二十世紀を生きた宇野千代は昨年六月十日、九十八歳、彼女流にいうと数え百歳で亡くなった。桜が好きだったが、紫陽花も似合うと思う。しっとりして、あでやかで、七変化で……。
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