書評

『組詩 天使の羅衣』(思潮社)

  • 2020/04/07
組詩 天使の羅衣 / 岡井 隆,佐々木 幹郎
組詩 天使の羅衣
  • 著者:岡井 隆,佐々木 幹郎
  • 出版社:思潮社
  • 装丁:ハードカバー(143ページ)
  • 発売日:1988-10-01
  • ISBN-10:4783702640
  • ISBN-13:978-4783702641
内容紹介:
女性,都市、言語、アジア、昭和、と組曲のようにさまざまにテーマを変奏しながら、現代詩と現代短歌がその最先端でスパークする。佐々木氏の鋭意な言語の切先に岡井氏の老練自在な切り返し。詩・短歌・散文の特性を最大限に発揮し、共同詩のみずみずしい磁場を形成することで、新たな詩法、喩法を提示する。4年間にわたる詩的実験の集成。
短歌と和歌ってどう違うんですか、と聞かれることは多い。が、詩と短歌ってどう違うんですか、と聞かれたことは、まだない。広い意味で考えれば、短歌は詩の一部分であるはずなのだけれど。たまに自分の短歌に使われている語をさして「この詩の言葉はですね……」などというと「あなたのは詩じゃなくて短歌でしょ」と叱られたりする。

いつのまに、こんなに遠ざかってしまったのだろう。現代詩と現代短歌と。こうやって〈現代〉という語を頭にのっけると、もうまるで別物になってしまう。詩と短歌と。

離れてしまったところから、もう一度見つめあい、刺激しあい、何かを生みだそうとした試みとして、詩集『天使の羅衣(ネグリジェ)』はとてもおもしろかった。歌人岡井隆と詩人佐々木幹郎とによる組詩が、十篇収められている。

SからOへ、詩が届く。それを受けてOからSへ、短歌が返される。そしてまたSからOへ……。順序は、Oが先の場合もあるし、Sが先の場合もある。詞書のような手紙があったり、なかったり。明確なテーマも、あるような、ないような。形式は比較的自由だ。

もちろん、こういった試みに、はじめから形式があったら逆に妙なことである。S→O→S→O→S……二人のイニシャルによるSOSの鎖は、言葉の突破口を探し求める「タスケテ」にも見えてくる。

十篇の中では「シミュレーション」と題する一連が、私には特におもしろかった。

出発は、佐々木幹郎から。「アメリカのローレンス・リバモア国立研究所では、スーパー・コンピューターを使って、水爆の実験シミュレーションをくり返しているそうです」

という前書きと、そのシミュレーションの描かれた写真を添えて、一篇の詩。

それを受けた岡井隆は、「べーム指揮ミサ・ソレムニスを聴く夜かな」という前書きののち〈私はこれを見ていて、モデルを目の前にして肖像画家が線を引いたり消したり、陰影を与えたりふくらみをつけたりといったさまを連想しないわけにはいかなかった――〉という詞書をおいている。

この段階では、「私はこれを見ていて」=「岡井隆は水爆のシミュレーションの図を見ていて」と解するのが普通であろう。ところが、この詞書は、吉田秀和『世界の指揮者』からの引用であることが後でわかる。そもそもこの文章は「吉田秀和はべームの指揮を見ていて」という文脈で書かれたものであったのだ。

情報をインプットされたコンピューターによる水爆のシミュレーション図から、楽譜をもとに音楽を作りだす指揮者の姿への連想。それを自分の言葉ではなくて、書物の言葉をコラージュすることで表現するという方法である。一つの調子を持った切り貼りの言葉が非常に有効に使われている。このやり方で、岡井隆は引用文を詞書とする歌を七首返した。

中でもおもしろいものを二首あげてみる。

  記号、かずかぎりなければ ひっそりと

  核融合の渦《二短調》

コンピューターに注がれる情報も、楽譜に書きこまれるオタマジャクシも、すべて記号である。記号とは、ある内容や事柄を指し示すものであって、物そのものではない。実体を持たない、いわば「虚」であるものが、かずかぎりなく飛びかっている。その背後で、「実」の部分が営まれているわけだが、それはあくまで「ひっそりと」した「渦」のようなものである。だから「実」でありながら、とらえにくい。記号になれた私たちは、むしろ「虚」のほうをはっきりと見ることができる。シミュレーションとは、そもそもそういうものだ。本当は虚である世界を、限りなく実に近づけてゆく作業。そのシミュレーションに熱中しているあいだに、ひっそりと、けれど確実に、核融合の実(み)は熟しているのではないか。音楽という芸術の風景と巧みに重ねあわせて、文明のぞっとするような一面を照らしだした一首である。

  水爆は水素を煮つつ女らの衝動のごと不意に生まれつ

いくら科学の進歩とはいえ、何でこんなものを作っちゃったんだろうと思うことがある。

水爆などというのは、その最たるものだ。

「水素を煮る」という表現が、人間くさくてユニークだ。水爆とは、人間が作りだしたものではなく、しでかしたことなのだ――という作者の思いが、そこには感じられる。ここで「女ら」という言葉が選ばれたのは、セクシャルハラスメントではない。生む性としての女であり、そういう意味では、男をも含んだ女であろう。

その後佐々木幹郎は「ゼムクリップ」という新しい素材を持ちこみ、一連を展開させる。

たとえば、こんな詩。

  ゼムクリップを並べて

  水爆雲をシミュレートしてみる

  そのひとつを一本の直線に引き伸ばし

  先端に綿を巻きつけて耳搔き棒として使用する

ここでのゼムクリップは、虚と実をつなぎとめるための、小道具であろう。

受けて岡井隆。

  今世紀末そ近づく或る日わが一軍を率(い)て紙上にありつ

佐々木がゼムクリップを広げた紙の上に、岡井は兵士としてあらわれる。シミュレーションの中のシミュレーション。

さらに佐々木から指示された「宇宙ステーションの中に育つ青ネギ」や「力うどんを食べる墓参のわが妹」が、全体を、終末から再生のイメージへと転換させる。岡井はここへ「平城京の復元」を持ちこみ、再生のイメージを過去と未来へ振りわけた。一連は次の一首で終わる。

  世界はたしてだれのするどき手に乗れるむかう斜面の馬酔木の光

長々と読み解いてきたが、結局はこの一首に収斂されてしまうことに、最後にきて気づく。十六ページにわたるやりとりを、三十一文字に昇華させるこの手さばきを、岡井隆の魔手と呼ぶのかもしれない。

一九八六年、「アサヒグラフ」の増刊号として「昭和短歌の世界」という一冊が出版された。その年、角川短歌賞をもらったばかりの私は、最も若い歌人として、その本の隅に載せてもらった。

写真を撮りにきたカメラマンが陽気な人で、その「アサヒグラフ」のために撮影した数々の歌人たちのプロフィールを、聞かせてくれる。

「やっぱり創作っていうか表現をしている人には、素敵な人が多いね」

その話の中のお一人に、前川佐美雄の名前があった。

カメラマンが「実はボクは絵描きになりたかったんだけど、結局はあきらめました」という話をしたところ、大変にうちとけてくださったという。後で知ったことだが、前川佐美雄自身も、若い日に絵を描きだしたところ祖父にとめられたという過去のできごとがある。そんな自分の青春の風景が、ふとよみがえったのかもしれない。

人によっては「気むずかしい」と言われる歌人だが、カメラマンには大変気さくで、ごはんまでご馳走してくれたのだそうだ。

遅ればせながら、私はその「アサヒグラフ」で、前川佐美雄という歌人が、竹柏会「心の花」の大先輩であることを知った。略歴には「大正十年『竹柏会』に入門、佐佐木信綱に師事。」とある。

写真は、すごい迫力だった。眼鏡の奥からこちらをじっと見据える目。なんというか、とにかく「ただものではない」という雰囲気に満ちている。

写真のすぐ横には、歌集『植物祭』からの自選十首が並んでいた。これが、写真以上の迫力で胸に迫ってきた。やはり、ただものではない人なのだ、と思った。

  夭く死ぬこころがいまも湧いてきぬ薔薇のにほひがどこからかする

  ぞろぞろと鳥けだものをひきつれて秋晴の街にあそび行きたし

  ふうわりと空にながれて行くやうな心になつて死ぬのかとおもふ

この三首が、特に印象に残り、さっそく筑摩書房の『現代短歌全集』で『植物祭』を読んだ。

奇妙な読後感――というのが正直な感想だった。何ものからも束縛されない自由な心を持っている作者。その作者が、自分自身の心からだけは束縛されている。ときに暴走してしまうくらいの、あまりに自在な心が、かえって作者自身を苦しめているような、そんな印象を持った。

前川佐美雄の世界では「作者=心」という図式は成り立たないのではないだろうか。作者自身が、「心」というものをまったく得体の知れない不気味なものとして観察している――というふうに、私は感じた。

  おもひでは白のシーツの上にある貝殻のやうには鳴り出でぬなり

甘い感傷さえも、自分で操ることはできないのだ、というため息が、美しい比喩で歌われていて、私の大好きな一首である。

  なにゆゑに室は四角でならぬかときちがひのやうに室を見まはす

  あを草のやまを眺めてをりければ山に目玉をあけてみたくおもふ

こういうことは「考えて」思ったことではなく、「感じて」思ったことだろう。まず心が感じてしまった。その無意識に思ってしまったことを、言葉でつかまえて定着させる。

意識はこの段階で、はじめて訪れる。

不気味、不安、狂気――といった言葉が『植物祭』を読み解くキーワードであることは確かだろう。が、それだけでは、ない。それだけでは、あまりにも息苦しすぎる。

シュールな世界に、ときどきふっと風穴が開いているのを、私は感じた。たくまざるユーモア、というのだろうか。本人はもちろん大真面目なのだが、読んでいると思わずクスッ(あるいはニヤッ)としてしまう歌がいくつかある。それらが、緊張感で破裂しそうな読者の心の風船から、スッと空気を抜いてくれるような感じがした。たとえば、次のような歌。

  押入のふすまをはづし畳敷かばかはつた恰好の室になるとおもふ

  わが室にお客のやうにはいり来てきちんとをれば他人の気がする

  さんぼんの足があつたらどんなふうに歩くものかといつも思ふなり

  これまでも草木にきらはれた覚えなくいまは草木と共に息する

つくづく不思議な感性の持ち主だなあと、思わずにいられない。妙といえば妙な歌たちだ。もっとはっきりと「ヘン」といってもいい。けれどそれは、人を遠ざける「妙」や「ヘン」ではなく、人を惹きつける「妙」であり「ヘン」なのである。ことに右にあげたような作品たちには、小さな笑いを誘ってくれる親しみやすさがある。このあたりの魅力は作者の人柄からくるものなのだろう。

【この書評が収録されている書籍】
本をよむ日曜日 / 俵 万智
本をよむ日曜日
  • 著者:俵 万智
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:単行本(205ページ)
  • 発売日:1995-03-01
  • ISBN-10:4309009719
  • ISBN-13:978-4309009711
内容紹介:
大好きな本だけを選んで、読んだ人が本屋さんへ行きたくなるような書評を書きたい-朝日新聞日曜日の書評欄のほか、古典文学からとっておきのお気に入り本まで、バラエティ豊かに紹介する、俵万智版・読書のススメ。

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組詩 天使の羅衣 / 岡井 隆,佐々木 幹郎
組詩 天使の羅衣
  • 著者:岡井 隆,佐々木 幹郎
  • 出版社:思潮社
  • 装丁:ハードカバー(143ページ)
  • 発売日:1988-10-01
  • ISBN-10:4783702640
  • ISBN-13:978-4783702641
内容紹介:
女性,都市、言語、アジア、昭和、と組曲のようにさまざまにテーマを変奏しながら、現代詩と現代短歌がその最先端でスパークする。佐々木氏の鋭意な言語の切先に岡井氏の老練自在な切り返し。詩・短歌・散文の特性を最大限に発揮し、共同詩のみずみずしい磁場を形成することで、新たな詩法、喩法を提示する。4年間にわたる詩的実験の集成。

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國文學(終刊)

國文學(終刊) 1990年9月号

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