書評
『アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること』(新潮社)
生還者は「人間的」になったのか
艱難(かんなん)汝(なんじ)を玉にす。だが、途方もない災厄を経験した者はその分だけ人格者になれる、とナイーブに考えるのは幻想である。ヨーロッパで約600万人が虫けらのように殺戮(さつりく)されたユダヤ人虐殺(ホロコースト)の地獄から生還した者たちは、より〈人間的〉になったのだろうか?自身も厳格なユダヤ教徒の家庭に育った著者の意見はどうやら否定的だ。
表題作の短編では、正統的ユダヤ教徒となりイスラエルに移住したマーク夫妻を、フロリダに暮らすユダヤ系の主人公夫妻が迎え入れる。そこで語られるマークの父親の逸話は強烈である。ゴルフ場のロッカールームで同じ絶滅収容所の生存者に再会した父親が示す反応は、決して心温まる〈いい話〉などではない。
ヨルダン川西岸のユダヤ人入植地が舞台の「姉妹の丘」では、度重なる戦争で夫と子供を失った女性リーナが、労苦と悲しみによって頑迷さを深め、パレスチナ人から土地を奪うのみならず、過去の約束を盾に若い女性の未来を奪う。「キャンプ・サンダウン」は、サマーキャンプに集うユダヤ人の老人たちを描くものだが、ホロコーストの被害者である彼らは偏狭な思い込みから無実の老人を迫害するのである。
「覗(のぞ)き見ショー」の主人公アレンを苛(さいな)む深い罪悪感は、妊娠中の妻がいるにもかかわらずいかがわしい店に入ることに加えて、改名までして自らのユダヤ性を捨て去ろうとしたことに由来する。
本作の短編群には、アウシュビッツ以降の世界でユダヤ人であることの生きづらさが示されている。だが、ユダヤ人にも様々な宗教的、思想的立場があり、その不条理や矛盾に葛藤する人物たちの姿こそが〈人間的〉なのだ。ホロコーストによる個人的あるいは集団的な深い傷を抱えた人間が、我々と同じくらい愚昧(ぐまい)さを抱えてもいると知ることは、我々をより〈人間的〉にしてくれる気がする。
朝日新聞 2013年6月2日
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