小説にしか言えないこと
クンデラの評論が翻訳紹介されるのは『小説の精神』と『裏切られた遺言』に続き本書が三作目ということになる。内容的には前の二作と多くの点で重複が見られるが、これは同一テーマあるいはモチーフの変奏と見るべきだろう。それは本書自体の特徴でもある。実際、彼は小説の構成を音楽のアナロジーとして見ていることを別の機会に明らかにしているのだ。そして構成ということで言えば、三作のうち本書がもっとも整理されていて、それが読みやすさにつながっていることも確かである。そのことは早くも目次に現れている。というのも各部の下位単位となる節に付された見出しのそれぞれが、著者のバイブルとも言える小説、『ドン・キホーテ』のように、各節のレジュメになっているからであり、全体としてクンデラ版小説史に見えるのは、読者を終結部へと運んで行く大きな流れを感じさせるからである。『小説の精神』のなかのアフォリズムで、彼は小説を「すぐれた散文形式」であり、「この形式において、作者は実験的自我(登場人物)を介して実存のさまざまの重大な主題をとことん考察する」としているが、彼における評論は、作者と作品を介して小説を徹底的に考察するための散文形式ということになるだろう。そこでは音楽も動員されるが、主役はあくまでも小説である。
クンデラの小説信奉には並々ならぬものがある。たとえば「ただ小説だけが言いうること」という節がその例だ。ここで著者は初めてアジアの作家を取り上げ、大江健三郎の短篇「人間の羊」で語られる、バスの日本の乗客が外国の兵隊たちによって屈辱的な格好をさせられるというエピソードに触れるのだが、彼が評価するのは大江がその兵隊たちをアメリカ兵と名指さなかったことである。そのことによりこの短編小説は政治的テクストにならず、作者の主要な関心の対象である実存の謎を照射する。つまり「小説家は歴史家たちの下僕ではない」のであり、小説にしか言えないことがあるというわけである。
この分析はおそらく的を射ている。というのも、確か雑誌掲載のエッセーだったと思うのだが、大江がガルシア=マルケスの中篇『大佐に手紙は来ない』について語った言葉を思い出すからだ。今手許にその文章がないので正確には引用できないが、息子を軍に殺された退役軍人が息子の形見として飼っている軍鶏を革命のシンボルだと見なすラテンアメリカの学生たちに対し、彼は地方的な歴史に還元しない読み方を提唱したのである。
こと小説に関してはヨーロッパ中心主義者と見なせるクンデラだが、本書ではこれまでになくラテンアメリカの作家への言及が多い。これも大きな特徴だ。前の評論でもカルロス・フエンテスやガルシア=マルケスの名が挙がっていたが、本書第Ⅲ部の「もうーつの大陸」では彼ら二人にコルタサルを加えた三人が作家同盟の招きでロシア軍に占領されたプラハを訪れたことを回想している。ただし、歴史にこだわらない作家らしく、俗っぽい読者が期待しそうな具体的なエピソードを披露してはくれない。
だが、ありがたいことに、実はこのときの訪問についてフエンテスがエッセーに書いている。『小説の地理学』という評論に収められた「ミラン・クンデラ:秘められた睦言」というのがそれで、フエンテスに従えば、彼らは一九六八年十二月に列車でパリからミュンヘンを経てプラハに到着し、大学の宿舎に泊まった。クンデラは壁に耳のない唯一の場所として彼らをサウナに誘ったところ、ガルシア=マルケスとフエンテスの二人が同伴し、彼らは人目を気にすることなく歓談した。そのあとクンデラは二人を冬の川に突き落としたという愉快な落ちがついている。一方、クンデラによると、ラテンアメリカ作家三人組は一週間滞在したのち帰っていったが、彼が『百年の孤独』のチェコ語訳を校正刷りで読んだのはそのあとだった。
クンデラは移住したフランスで当時メキシコ大使を務めていたフエンテスと親しくなり、レンヌからパリに出てくると大使館に投宿したようだ。こうした交流を通じ、彼は自らが属する「中央ヨーロッパ」と同様に「バロックの経験にもっとも深く刻印された」ラテンアメリカとの類縁性を認識する。それらは「反対の両極端に位置する西欧の二つの辺境」であると同時に「二十世紀小説の進化において中枢の場所を占めた」のだと彼は言う。ここにもクンデラのヨーロッパ中心主義が看取できるが、それよりも彼の批評に耳を傾けるほうが面白い。
たとえば「ガルシア=マルケスの小説は自由な想像力以外の何ものでもない。私が知るもっとも偉大な詩作品のーつなのだ」と言う。そしてこの作家の「ポエジーは抒情とは何の関係もないのであり、著者は自己告白するわけでも、みずからの魂を開いてみせるわけでもない」こと、「彼はただ客観的な世界にしか陶酔せず、その客観的な世界を、すべてが現実的で、同時に本当らしくなく、魔術的な圏域のなかに築くのである」と述べるのだが、ここでクンデラが語っているのが実はいわゆる〈魔術的リアリズム〉の原理であることは言うまでもない。そして何よりも彼を驚かせたのは、「『百年の孤独』には場面がない」こと、「場面は叙述の陶酔した波のなかに完全に溶かされている」ことである。
しかし、カルペンティエルの小説について彼が興味を示すのは、〈魔術的リアリズム〉と同一視されることの多い〈現実の驚異的なもの〉ではなく、「ただーつの構成のなかに様々な歴史的時代を統合」している『ハープと影』であり、同様の理由でフエンテスの『テラ・ノストラ』を挙げる。また、彼らの作品に見られる「ラテンアメリカとヨーロッパとの途方もない対比」を評価する。さらに彼はマルチニックやハイチの小説の重要性を指摘するのだが、やはりそこには中心と周縁という彼の世界観が反映していることは否めない。だがいわばこれらの新しい小説群の「発見」によって、彼はこのジャンルがさらに力強く発展すると考えてはいない。むしろそれは絶頂期を過ぎ、近代ヨーロッパの消滅とともに消えて行くと見なしている節がある。しかし故ホセ・ドノソも形式としての小説の未来については悲観的だった。それは形を変えるかもしれないと、遺書とも見られる小説『象の死場』で彼は述べている。
それでもクンデラはアジェラスティ(嫌笑症)ではない。おそらく、ラテンアメリカの同世代作家二人を川へ突き落としたユーモア精神を最後まで持ち続けたまま、小説というジャンルと付き合って行くのだろう。