書評
『アラビアン・ナイトメア』(国書刊行会)
国書刊行会は偉い。売り上げが期待できないから大手出版社が腰を引くような通好みの傑作を、外国語に不自由な小説ファンのためにコツコツ翻訳出版してくれる国書刊行会は偉いっ! 折に触れては各所で絶賛しているわたしなのだけれど、またもやってくれた、というか出してくださいました、〈文学の冒険〉シリーズから瞠目にして刮目の一冊を。ロバート・アーウィンの『アラビアン・ナイトメア』。八十三年の発表以来、「カルト小説の決定版らしい」と、ポストモダン小説愛好家の間では長らく噂ばかりが興奮気味に飛び交っていた幻の傑作を、ついに、ついについについに読めるこの喜びを、まずは故郷の母に伝えたい、そんな感じなんである。
舞台は十五世紀のカイロ。物語の中心人物の一人であるイギリス人青年バリアンは、聖地巡礼団の一員としてこの地を訪れたのだが、実は、彼にはもうひとつの貌(かお)がある。それはスパイ。ところが、到着早々、バリアンは寝ている最中に出血するという原因不明の奇病に冒され、任務遂行に支障をきたしてしまう。悪夢が毎晩訪れても朝になるとその夢を忘れてしまい、毎夜毎夜、終わりのない苦しみが続くという〈アラビアの悪夢〉を筆頭に、色んな悪夢病が蔓延し、陰謀が渦巻くカイロを夢遊病者のようにさまようバリアン。謎のイギリス人ヴェインに誘われて、悪夢を治療してくれるという眠りの館の主〈猫の父〉に面会するものの――。
と、ここまでは物語のほんのさわりにすぎない。性技のテクニシャンである娼婦ズレイカや、カイロ一の語り部ヨルとその仲間など、様々な人物の思惑や、『千一夜物語』を彷彿させる奇っ怪なエピソードが錯綜。物語は読者をとんでもない場所へと連れ去ってしまうのだ。これは〈アラビアの悪夢〉をめぐるミステリーであり、冒険小説であり、都市小説であり、ボルヘスばりの迷宮小説であり、幻想小説であり、黒い哄笑を引き起こすコミック・ノベルであり、寓話であり、ありとあらゆる文学の楽しみを詰め込んだ、読み応えという点で申し分のない傑作なのだ。
とはいえ、〈文学の冒険〉シリーズの一冊なのだから、娯楽小説のようにやすやすと読み進められるわけでもない。バリアンに巡礼者という表の貌とスパイという裏の貌があるように、この物語も昼と夜、現実と虚構、合理的世界と感覚的世界、理性と欲望、聖なるものと俗なるものといった二つの面が合わせ鏡のごとく互いの姿を映しあい、読者の目を幻惑する。また、夢の中にまた夢、物語の中にまた物語といった入れ子構造や、語り手に関するトリックも仕掛けられているので、読み進めるうちに、あたかも自分自身が〈アラビアの悪夢〉の中に放り込まれたような不安すら覚えるかもしれない。つまり、小説の技巧がふんだんにこらされたポストモダンのお手本のような作品なんである。
でも、大丈夫。そんな面倒な理屈なぞ気にせずに、ひたすら作者の声に耳をすませ、そこで起きている出来事の渦中に無抵抗に巻き込まれればいい。バリアンの目で蠱惑(こわく)的な迷宮都市をさまよい歩けばいい。すると、放っておいても物語のほうからあなたに忍び寄ってくる、ひたひたと。そんな生き物のように艶めかしい小説が、この『アラビアン・ナイトメア』なのだ。心して読まないと、あなた自身が悪夢の囚われ人になってしまうかも。実際、わたしも――。
舞台は十五世紀のカイロ。物語の中心人物の一人であるイギリス人青年バリアンは、聖地巡礼団の一員としてこの地を訪れたのだが、実は、彼にはもうひとつの貌(かお)がある。それはスパイ。ところが、到着早々、バリアンは寝ている最中に出血するという原因不明の奇病に冒され、任務遂行に支障をきたしてしまう。悪夢が毎晩訪れても朝になるとその夢を忘れてしまい、毎夜毎夜、終わりのない苦しみが続くという〈アラビアの悪夢〉を筆頭に、色んな悪夢病が蔓延し、陰謀が渦巻くカイロを夢遊病者のようにさまようバリアン。謎のイギリス人ヴェインに誘われて、悪夢を治療してくれるという眠りの館の主〈猫の父〉に面会するものの――。
と、ここまでは物語のほんのさわりにすぎない。性技のテクニシャンである娼婦ズレイカや、カイロ一の語り部ヨルとその仲間など、様々な人物の思惑や、『千一夜物語』を彷彿させる奇っ怪なエピソードが錯綜。物語は読者をとんでもない場所へと連れ去ってしまうのだ。これは〈アラビアの悪夢〉をめぐるミステリーであり、冒険小説であり、都市小説であり、ボルヘスばりの迷宮小説であり、幻想小説であり、黒い哄笑を引き起こすコミック・ノベルであり、寓話であり、ありとあらゆる文学の楽しみを詰め込んだ、読み応えという点で申し分のない傑作なのだ。
とはいえ、〈文学の冒険〉シリーズの一冊なのだから、娯楽小説のようにやすやすと読み進められるわけでもない。バリアンに巡礼者という表の貌とスパイという裏の貌があるように、この物語も昼と夜、現実と虚構、合理的世界と感覚的世界、理性と欲望、聖なるものと俗なるものといった二つの面が合わせ鏡のごとく互いの姿を映しあい、読者の目を幻惑する。また、夢の中にまた夢、物語の中にまた物語といった入れ子構造や、語り手に関するトリックも仕掛けられているので、読み進めるうちに、あたかも自分自身が〈アラビアの悪夢〉の中に放り込まれたような不安すら覚えるかもしれない。つまり、小説の技巧がふんだんにこらされたポストモダンのお手本のような作品なんである。
でも、大丈夫。そんな面倒な理屈なぞ気にせずに、ひたすら作者の声に耳をすませ、そこで起きている出来事の渦中に無抵抗に巻き込まれればいい。バリアンの目で蠱惑(こわく)的な迷宮都市をさまよい歩けばいい。すると、放っておいても物語のほうからあなたに忍び寄ってくる、ひたひたと。そんな生き物のように艶めかしい小説が、この『アラビアン・ナイトメア』なのだ。心して読まないと、あなた自身が悪夢の囚われ人になってしまうかも。実際、わたしも――。
初出メディア

ダカーポ(終刊) 2000年1月19日号
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