書評

『アーダ〔新訳版〕』(早川書房)

  • 2018/07/31
アーダ〔新訳版〕 上 / ウラジーミル・ナボコフ
アーダ〔新訳版〕 上
  • 著者:ウラジーミル・ナボコフ
  • 翻訳:若島 正
  • 出版社:早川書房
  • 装丁:単行本(414ページ)
  • 発売日:2017-09-21
  • ISBN-10:4152097108
  • ISBN-13:978-4152097101
内容紹介:
美しい11歳の従姉妹アーダに出会ってまもなく、14歳のヴァンは彼女の虜となった。青白い肌の博学なアーダと知的なヴァン。一族の田舎屋敷で、愛欲まみれの恋を繰り広げる二人はしかし、ある事情により引き裂かれる。著者の想像力と言語遊戯が結実する傑作長篇

「言葉の魔術師」のすべて

ウラジーミル・ナボコフの晩年の大作『アーダ』の新訳である。原著は一九六九年刊、日本語には一九七七年に一度訳されているが、残念ながら原著の魅力と真価を伝えるものにはなっていなかった。ナボコフのテクストがいかに複雑で豊かなものか、十分に理解されていなかった頃、よくこんな難しいものが翻訳できたものだと、むしろその大胆さに感心する。

四〇年ぶりに出た新訳は、ナボコフ研究の第一人者、若島正氏が一〇年以上研究会を重ね、満を持して世に問うものだ。訳者自身の言葉を借りれば尋常ではなく濃厚な密度の文章で書かれたこの小説は「ナボコフ度二〇〇パーセント」の難物だが、練り上げられた訳文のおかげで、原文のエロティックなところは色っぽく、可笑( おか )しなところは笑えるほどおかしく(ページの向こうから目配せをしているナボコフの顔が見えるようだ)、読者は実験的でありながらも優雅なロマンスの世界にゆったりひたることができるようになった。古ぼけた写真が、急に、くっきりと細部を浮かび上がらせ蘇(よみがえ)ったという感じがする。

『アーダ』は架空のアンチテラと呼ばれる世界を舞台にした、一種のパラレルワールド・ファンタジーである。この世界はわれわれの地球と基本的には同じようなのだが、歴史がだいぶ異なっている。ロシアから大量の移民が北米に流れ込み、「アメロシア」という大国ができている、というのだ。ごく単純化して言えば、この長篇はその世界を舞台に繰り広げられる男女の宿命的な愛のロマンスだとも言える。裕福な貴族の家柄のヴァンとアーダの、八〇年にも及ぶ情熱の奇跡の物語だ。幼くして出会った二人が早くから性の喜びをむさぼる様は、あまりにも官能的。

そして、この作品は博学なナボコフが自分の知識と感性をすべて注ぎ込んだメタ文学、つまり文学についての文学の最高峰でもある。その言語はおびただしいロシア語やフランス語も交えながら、華麗な美文から、辛辣(しんらつ)なあてこすり、隠された引用まで、変幻自在で、小説の本当の主人公は言葉そのものではないかと思わせるほどだ。さらに、この小説は時間と存在をめぐる哲学的思考の産物でもある。この小説はなんと多くのものを含んでいることか。しかし肝心なのは、それらが渾然(こんぜん)となり、緊密に一つの世界を織りなしているということだ。ここにはロシアからアメリカに亡命し、ロシア語の他、英語・フランス語も母語同様に操った「言葉の魔術師」ナボコフのすべてが詰まっている。あまりにも「詰まりすぎ」の観があって、敬遠する読者や批評家が少なくないのも事実だが、新訳によって立ち上がる世界の魅力には抗(あらが)い難い。

『アーダ』が英語時代のナボコフ最後の頂点であることは間違いないが、今年はナボコフ没後四〇年にあたり、折しも、初期作品のロシア語原典からの新訳も『ナボコフ・コレクション』(全五巻の予定、新潮社)として刊行され始めた。その初回配本には『マーシェンカ』(奈倉有里訳)と『キング、クイーン、ジャック』(諫早勇一訳)の二長篇が収められているが、『マーシェンカ』はナボコフ二七歳の長篇デビュー作で、こちらはみずみずしい抒情(じょじょう)的回想と亡命者の直面する厳しい現実が交錯する、忘れがたい佳品である。今こうして現代日本でナボコフの始まりと終わりが出会い、私たちはその巨大な振幅の中に、いまだに汲(く)みつくせない文学の快楽が秘められていることに改めて気づかされる。(若島正訳)
アーダ〔新訳版〕 上 / ウラジーミル・ナボコフ
アーダ〔新訳版〕 上
  • 著者:ウラジーミル・ナボコフ
  • 翻訳:若島 正
  • 出版社:早川書房
  • 装丁:単行本(414ページ)
  • 発売日:2017-09-21
  • ISBN-10:4152097108
  • ISBN-13:978-4152097101
内容紹介:
美しい11歳の従姉妹アーダに出会ってまもなく、14歳のヴァンは彼女の虜となった。青白い肌の博学なアーダと知的なヴァン。一族の田舎屋敷で、愛欲まみれの恋を繰り広げる二人はしかし、ある事情により引き裂かれる。著者の想像力と言語遊戯が結実する傑作長篇

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2017年11月12日

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