「語り」への着目、目からうろこ
「かたり」が「語り」でもあれば「騙(かた)り」でもあるということには深い含みがある。マコトの語りとダマシの語りの差をないものにしてしまうからだ。それは「在るもの」と「作られたもの」の区別をさえ失効させてしまう。レトリックといえばふつう、口先だけの美辞麗句だとか、まやかしの詭弁、人を焚きつける雄弁など、誘導の技だとおもわれている。けれども、新聞はアメリカの大統領のことを「ホワイトハウス」と言い、学術論文は「~は明らかである」と結論づける。童話には「白雪姫」や「赤頭巾ちゃん」が登場し、日常の会話には「椅子の脚」だとか「タヌキ親爺」「縄のれん」といった表現が無数にある。唯一無比の存在たるブッダやイエスという名もじつはそれぞれ「目覚めた人」「救世主」という役柄を意味する。こういうレトリカルな表現の織物としてわたしたちの現実は編まれている。
本書はそういう視点から多様な〈宗教〉文化の解剖を試みる。誇張や反語、対句や逆説を駆使した誘惑の語り。それは客引きやたたき売りの口上、やくざの脅しに通じる。けれどもそれは、縮こまったわたしたちの思考を躍動させもする。いいかえると、発想の転換をけしかける。視点をずらす、思考に風穴を開ける、知性をシビれさせる、人の背中をぐいと押す……(これらがみなレトリカルな表現であることに注意)。
宗教から人生訓、道徳、科学まで、思考のさまざまな局面をあざやかに横断するレトリック。著者はそこから、宗教の語りを人びとの日常の語りをレトリカルに変形したものと批判的に見るとともに、そういう語りこそ世界へのビジョンを開いてゆくバネだと肯定的に捉えもする。そして「ノートの端っこの空白のようにして、神仏の存在や介入の可能性の欄を確保しておこう」という。まさに「目からうろこ」の宗教論だ。