書評
『ルー・アンドレーアス=ザロメ 自分を駆け抜けていった女』(アルク出版企画)
「考えること」望んだファム・ファタル
ルー・ザロメについてはリリアーナ・カヴァーニ監督、ドミニック・サンド主演の「ルー・サロメ 善悪の彼岸」のおかげで日本でもだいぶ知られるようになったが、映画の影響か、ニーチェと弟子のパウル・レーに「三位一体」の共同生活をもちかけて二人を翻弄(ほんろう)したあげく、突然、オリエント学者フリドリヒ・カール=アンドレアスと性関係のない結婚をしたファム・ファタル(運命の女)というイメージが強い。実際、ルー・ザロメは、その後、夫アンドレアス公認のもとで一〇歳以上年下の詩人ライナー・マリア=リルケと愛人関係を結んだり、晩年にはフロイトの弟子となって精神分析を実践したりと、自由で奔放な一生を送ったので、ファム・ファタルと呼ばれてもしかたない面もある。しかし、そうした通俗的イメージでは割り切れないものも感じたので、自伝や作品を渉猟してみたが、どうもいま一つ鮮明なイメージが結ばない。作品がいわゆる朦朧(もうろう)文体のため、なにが言いたいのかよくわからないからである。だが、本書に訳出されたニーチェへの献詩の一節を読んで、ルー・ザロメという作家の本質が少しは理解できたような気がした。何千年もこの世に生きさせてください! 考えること、それをしたい!
そうだったのか! ルー・ザロメにとって人生の第一義は「考えること」であり、その生涯を彩る愛や性は二義的なものにすぎなかったのである。ニーチェに接近したのも「彼とともに考えたかった」からであり、ニーチェが彼女の魅力にひかれて結婚を申し込んだのは想定外のトラブルに過ぎず、ニーチェ&パウル・レーとの性関係なしの「三位一体」生活こそが本気も本気、大まじめな希望だったのである。
本書の特徴は、著者が精神分析学者にして伝記作家ということもあり、あまり取り上げられることのなかったルーの著作をしっかりと読み、そこに彼女の自己表現の方法の変化を見ることにある。たとえば、ニーチェが「半熟小説」と表した彼女の第一作『神をめぐる闘い』については「作品全体の基本を成しているのは、個性と自己解釈が従来の宗教と道徳から何の制約も受けなくなった現代人の苦悩である。(中略)こうした伝統的な価値は木端微塵に砕かれると、何の力も持たなくなる。そうすると愛や芸術、心の安らぎや一瞬一瞬の満足が重く見られるようになり、必然的に魂の葛藤を分析することへ力点が移っていく」と評して宗教・道徳との闘いの後に生まれる空虚から精神分析へ傾斜していった彼女の心の軌跡を見ようとする。
また、リルケという幼児固着の典型のような天才詩人との葛藤に満ちた関係を経ることでルーがより大きな問題を発見する過程についてこう述べる。「助けを求めるリルケの叫びは、ルーにとって自分自身とどう付き合ったらいいか、それを会得するきっかけとなった。ルーはやがて、自分のなかに認めたくないものを、近くて遠いリルケのなかに一層はっきりと見てとることができるようになった」
つまり、ルーはリルケを介して「自己」と直面することを余儀なくされ、精神分析へと向かっていったのである。
なるほどこう考えると、ニーチェ、リルケ、フロイトというルーの「男の選択」は決して偶然ではなく、彼女の「必然」であったことがわかる。ルー・ザロメを現代的文脈から読み込んだ良書である。
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