書評

『誤作動する脳』(医学書院)

  • 2020/07/23
誤作動する脳 / 樋口 直美
誤作動する脳
  • 著者:樋口 直美
  • 出版社:医学書院
  • 装丁:単行本(260ページ)
  • 発売日:2020-03-02
  • ISBN-10:4260042068
  • ISBN-13:978-4260042062
内容紹介:
「時間という一本のロープにたくさんの写真がぶら下がっている。それをたぐり寄せて思い出をつかもうとしても、私にはそのロープがない」――たとえば〈記憶障害〉という術語にこのリアリティはありません。ケアの拠り所となるのは、体験した世界を正確に表現したこうした言葉ではないでしょうか。本書は、「レビー小体型認知症」と診断された女性が、幻視、幻臭、幻聴など五感の変調を抱えながら達成した圧倒的な当事者研究です。

自らを観察 「できる」を取り戻す

私たちは、体が、脳が、五感が衰えることを恐れる。やがて衰えていくという自覚を持ちつつ、衰えを先に延ばそうとする。できなくなったことが増えた人を見て、できることを保っている人が、自分はまだ恵まれていると感じる。その自覚はおおよそ暴力的だ。

私たちには、それぞれまったく違う「できない」と「できる」があります。そして「できない」から「しない」のではなく、自分の「できる」を使って、「できない」を違う形の「できる」に変えて生活を続けています。

本書を読んでもっとも大切にしたいと思った一文だ。「できる」「できない」は、共通概念ではない。

本書の著者は、50歳でレビー小体型認知症と診断された。ある時、鰻(うなぎ)屋の店先で、嗅覚(きゅうかく)が失われたことに気づく。「次に何を失うのだろう」。映画館である映画を見ていた際、闇から光に出るシーンで「ギャッ!」と叫んだ。目が潰れるかと思うほどの衝撃を受け、「私の行動範囲は狭くなる一方なのか」と涙を流した。

幻視や幻聴にも悩まされてきた。音楽を流しながら走る廃品回収車に脳が乗っ取られ、会話不能状態に陥る。起こっていない地震を感じ、布団のなかで床が傾いていると感じる。時間の遠近感、距離感も失われていく。あの時、今、これから、という感覚がない。自分と他者の間に「理解の橋」はかからず、「専門家の冷酷な解説」が、自分を社会から切り離そうとする。

ある時から、体から失われていくものを損失と捉えるのをやめた。自分の体に起きた「異常」を「普通」に切り替えていく。「何でもない普通のことと考えれば、何でもない普通のことになる」。目の前にハエを見つける。それが本物か幻視かを追いかけ「本物だ!」と確信した瞬間に目の前で消えると心身へのダメージが大きい。だったら、「もういい、幻視でも本物でもどっちでもいい」。

誤作動を繰り返す自分の脳を、自らしつこく観察していく。見える世界が変わったなら、自分をその世界に再びなじませていく。「できる」と「できない」を区分けして、自分の「できる」を減らすのではなく、「できない」を軸にして、「できる」を取り戻す。

精神科医・中井久夫の著作から「なによりも大切なのは『希望を処方する』ということ」との言葉を引用する。変わっていく自分と柔軟に付き合う方法を見つけ出す。

人は、過去・現在・未来が、頭の中でキレイに整理されていると思い込む。本当にそうか。実際には混じり合っているはず。時間と記憶は溶けたり蒸発したりするけれど「見えなくなったからといって、苦にしなくてもいいんじゃないか」。その意味を繰り返し考えた。
誤作動する脳 / 樋口 直美
誤作動する脳
  • 著者:樋口 直美
  • 出版社:医学書院
  • 装丁:単行本(260ページ)
  • 発売日:2020-03-02
  • ISBN-10:4260042068
  • ISBN-13:978-4260042062
内容紹介:
「時間という一本のロープにたくさんの写真がぶら下がっている。それをたぐり寄せて思い出をつかもうとしても、私にはそのロープがない」――たとえば〈記憶障害〉という術語にこのリアリティはありません。ケアの拠り所となるのは、体験した世界を正確に表現したこうした言葉ではないでしょうか。本書は、「レビー小体型認知症」と診断された女性が、幻視、幻臭、幻聴など五感の変調を抱えながら達成した圧倒的な当事者研究です。

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初出メディア

朝日新聞

朝日新聞 2020年4月25日

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