書評
『未亡人の一年〈上〉』(新潮社)
神は細部に宿る。
物語作家を自負するジョン・アーヴィングの作品はあまりにも面白すぎるがゆえに、いざストーリーをかいつまんで紹介しようとすると、お涙頂戴のメロドラマや荒唐無稽なトールテイル(おとぎ話)に堕してしまう怖れがある。また、謎めかした素振りを好まないアーヴィングは、明朗なフェアプレイ精神の発露ゆえに読者に手の内を明かしすぎるから、インテリをきどる読者にとっては「易しい作家」としか映らないかもしれない。
が、小説の神様が細部に宿るということを、わたしたちは決して忘れてはならない。アーヴィングが九八年に出した、とてもとても長い作品『未亡人の一年』は、まさにその見本といってもいい小説なのである。
物語は一九五八年の夏、四歳になったばかりのルースが、母親のマリアンがセックスをしている光景を目撃して甲高い声で叫ぶシーンから幕を開ける。
「もう叫ばないで。ただのエディとママじゃない」
エディはその夏、ルースの父親で世界的に有名な児童文学作家テッドの助手としてアルバイトにやってきていた高校生。マリアンとテッドの夫婦仲は冷めきっていて、それはテッドの浮気癖とルースが生まれる前に起こった悲劇のせいだった。彼らの自慢の息子二人が自動車事故で命を落としたのだ。その哀しみから立ち直れないマリアンに恋をするエディ。妻がエディと情事に耽っているのを承知で、それを無視して相変わらずの女漁りを続けるテッド。やがて、マリアンは家を出る。二人の息子を失った痛手と、いつかまたもや失うことになるかもしれない我が子ルースを愛してしまう恐怖に耐えきれず……。
そこから物語は九〇年に飛ぶ。エディは四十八歳。今なおマリアンを深く愛し続けており、あの夏の思い出を幾度も形を変えて語り直すだけの冴えない作家になっている。ルースは三十六歳。世界的に有名な作家になっている。父親のテッドは七十七歳にして健在。新しい作品は書いていないが、無軌道なセックスライフは相変わらずだ。その他、ルースの高校生時代からの親友ハナ、ルースに求婚している五十四歳の有能な編集者アラン、アムステルダムの娼婦ローイエと、彼女が殺された事件を調べる警官ハリーなど、様々な人物の人生が交錯しあいながら、物語はアーヴィングのすべての小説がそうであるように、賑々しい哄笑と切実な怒りと胸痛む哀切感たっぷりに、大団円に向かって突き進んでいくのである。
暴力、セックス、家庭、芸術と人生、死といったおなじみのテーマに加え、男性と女性の性差による不平等や理不尽という男性作家が関わるには勇気のいる領域にまで足を踏み入れたこの作品が、読者に与える読後感はすがすがしいのひと言だ。特に女性の読者にとっては。自身、アマチュアレスリングの優れた選手だったからか(いや、すべてのスポーツ選手がそうではないのだから、やはり個人の資質によるものなのだろう)、アーヴィングのフェアプレイ精神は徹底していて、性にまつわる様々な過去――その中にはもちろん倫理的観点から見て疑問視されるような醜悪な行為も含まれる――を持つことが許される男性に対して、女性にとってはそれがマイナスの要素にしかならなかったり、仕事の成功がイコール人生の成功として賛美される男性に対して、女性はいくら名声を高めようが結婚や家庭生活に失敗したら幸福だとは思ってもらえなかったりという理不尽を、アーヴィングはこの小説の中で怖れず提示しているのだ。
たとえば、十六歳のエディに向かってテッドが「事故の前から、あいつは気難しい女だった。つまり、もし事故がなくても、あいつは気難しかったに違いないってことだ」と、自分の前から去ったマリアンを非難するシーン。しかし、アーヴィングはエディの声を借りて、「それは、まさに男の言い分だった。それは、手に入らなかった女性について男が言う言葉だった」「男がこの言葉を言うときには、つねに女性を蔑むために言っている」と、テッドのマッチョな独善ぶりこそを批判し返す。
自分に都合のいいことだけを語り、都合の悪いことは隠蔽するという政治的な語り口を、アーヴィングは決して採らない。だからこそ、彼の作品は長大化に向かうのだろう。なぜ、テッドは不毛な女漁りをやめないのか。なぜ、マリアンは哀しみの淵からはい上がることができないのか。なぜ、エディは年上の女性だけに惹かれるのか。なぜ、ルースは本当に愛する男と巡り会えないのか etc. etc. アーヴィングは自分の作品に出てくるすべての登場人物の、すべての行為と感情について十全に語り尽くしたいと願うタイプの作家なのである。
たとえばアーヴィングは、ルースの朗読会に紹介者として出席しようと、雨の中ずぶ濡れになって会場へと急ぐエディのために、一章分もの文章を費やしてやる。小銭がないからタクシーを拾えず、小銭を作るためだけに欲しくもないダイエットコークを買い、ようやく乗り込めたバスの中では鈍くさいことばかりしでかしては乗客たちに「困りもの」扱いされ、やっとのことでたどりついた会場では一般客に間違えられ、三十二年ぶりに会ったルースの前なのに服も髪の毛も悲しいくらいびしょぬれで、長すぎる紹介の言葉で観客からもうんざりされる。そんな細かい描写のひとつひとつに、わたしたち読者は美しい年上の人妻にひと夏愛された十六歳の少年の面影や、その面影の上に降り積もった歳月の重さ(あるいは軽さ?)を見て取り、やがてエディを愛さずにはいられなくなっている自分に気づくという具合なのだ。
あるいは、テッドが卑怯にもエディを仲立ちにして女性と別れようとする〈ヴォーンさんを捨てる〉という章。テッドが描いたヴォーンさんの赤裸なポルノ画を手にエディが彼女の家を訪れ、逆上するヴォーンさんによってテッドが追いかけ回されるに至る一連のシーンがもたらす苦い笑いときたら、落語の名人の話芸もかくや。眼前にまざまざと浮かぶほど精密にディテールを描いたこの騒動の顚末によって、読み手はテッドがいかに男として最悪な人物なのか、この男が今後幼いルースにどんな悪影響を及ぼすのか、にもかかわらず生きている限りこの性根が叩き直されることはないだろうということが予感できるはずなのである。
そしてまた、母親がすべての愛を傾けている兄たちの写真が入った額縁のガラスで、人差し指をざっくり切った四歳のルースに十六歳のエディがしてやることと、言ってやること。「これから一生、勇気が必要なときには、ただ傷を見ればいいんだよ」。そして、エディはルースの抜糸が済んだ人差し指をケチャップに浸け、その指を優しく紙ナプキンに押しつけてやり、そのナプキンを水が入ったコップにかざして拡大するのだ。
このディテールが先に紹介したルースとエディの再会のシーンに、それからずっと後、ルースがようやく本当に愛する人と巡り会う際に、どれだけ伏線として効果を持つことか! アーヴィングが執拗に描く細部に、意味のないものなどひとつとしてないのである。なかでも最高のエピソードはというと……、いや、これだけは明かすわけにはいかない。この長い長い物語を、ルースやエディとともに生きた読者だけが、最後の最後で作者から受け取ることができる大きな大きなプレゼントなのだから。
さて、大勢の人物の多様な人生を神が宿りたもう細部の積み重ねによって描き倒すだけの体力と創作力に溢れたアーヴィングなのだから、四人の作家(テッド、ルース、エディ、さてもう一人とは?)が登場するこの作品で、お得意の文学的テクニックを存分に披露しないはずがない。それは小説内小説だ。世界中で読まれているというテッドの児童文学『壁のあいだをはうネズミ』や、幼いルースのひと言がきっかけで生まれた『誰かが音をたてないようにしているような音』、ルースが書く純文学の傑作の一部や、それ以外の作品の粗筋、エディがマリアンへの想いだけを綴った地味な佳作『夏のアルバイト』などの概略、そして“もう一人”の作家が書いたミステリー。それらの小説やルースの日記、創作ノートを本筋にちりばめる。つまりアーヴィングは、『未亡人の一年』という物語世界にそれ以外の法則で動く別の世界を重ねることで、登場人物たちの人生の選択やそれによる喜びや喪失感といった様々な感情が、読者によりリアルに伝わるよう腐心しているのだ。
緻密なディテールの積み重ねと、そのことで強化される伏線の妙、考え抜かれた構成、そして小説内小説の採用。文学愛好者が望みうる限りの、物語の面白さのすべてがこの作品には詰め込まれている。神は細部に宿る。アーヴィングは、そのことを痛いくらいよく理解している希有な作家の一人なのである。
【下巻】
【この書評が収録されている書籍】
物語作家を自負するジョン・アーヴィングの作品はあまりにも面白すぎるがゆえに、いざストーリーをかいつまんで紹介しようとすると、お涙頂戴のメロドラマや荒唐無稽なトールテイル(おとぎ話)に堕してしまう怖れがある。また、謎めかした素振りを好まないアーヴィングは、明朗なフェアプレイ精神の発露ゆえに読者に手の内を明かしすぎるから、インテリをきどる読者にとっては「易しい作家」としか映らないかもしれない。
が、小説の神様が細部に宿るということを、わたしたちは決して忘れてはならない。アーヴィングが九八年に出した、とてもとても長い作品『未亡人の一年』は、まさにその見本といってもいい小説なのである。
物語は一九五八年の夏、四歳になったばかりのルースが、母親のマリアンがセックスをしている光景を目撃して甲高い声で叫ぶシーンから幕を開ける。
「もう叫ばないで。ただのエディとママじゃない」
エディはその夏、ルースの父親で世界的に有名な児童文学作家テッドの助手としてアルバイトにやってきていた高校生。マリアンとテッドの夫婦仲は冷めきっていて、それはテッドの浮気癖とルースが生まれる前に起こった悲劇のせいだった。彼らの自慢の息子二人が自動車事故で命を落としたのだ。その哀しみから立ち直れないマリアンに恋をするエディ。妻がエディと情事に耽っているのを承知で、それを無視して相変わらずの女漁りを続けるテッド。やがて、マリアンは家を出る。二人の息子を失った痛手と、いつかまたもや失うことになるかもしれない我が子ルースを愛してしまう恐怖に耐えきれず……。
そこから物語は九〇年に飛ぶ。エディは四十八歳。今なおマリアンを深く愛し続けており、あの夏の思い出を幾度も形を変えて語り直すだけの冴えない作家になっている。ルースは三十六歳。世界的に有名な作家になっている。父親のテッドは七十七歳にして健在。新しい作品は書いていないが、無軌道なセックスライフは相変わらずだ。その他、ルースの高校生時代からの親友ハナ、ルースに求婚している五十四歳の有能な編集者アラン、アムステルダムの娼婦ローイエと、彼女が殺された事件を調べる警官ハリーなど、様々な人物の人生が交錯しあいながら、物語はアーヴィングのすべての小説がそうであるように、賑々しい哄笑と切実な怒りと胸痛む哀切感たっぷりに、大団円に向かって突き進んでいくのである。
暴力、セックス、家庭、芸術と人生、死といったおなじみのテーマに加え、男性と女性の性差による不平等や理不尽という男性作家が関わるには勇気のいる領域にまで足を踏み入れたこの作品が、読者に与える読後感はすがすがしいのひと言だ。特に女性の読者にとっては。自身、アマチュアレスリングの優れた選手だったからか(いや、すべてのスポーツ選手がそうではないのだから、やはり個人の資質によるものなのだろう)、アーヴィングのフェアプレイ精神は徹底していて、性にまつわる様々な過去――その中にはもちろん倫理的観点から見て疑問視されるような醜悪な行為も含まれる――を持つことが許される男性に対して、女性にとってはそれがマイナスの要素にしかならなかったり、仕事の成功がイコール人生の成功として賛美される男性に対して、女性はいくら名声を高めようが結婚や家庭生活に失敗したら幸福だとは思ってもらえなかったりという理不尽を、アーヴィングはこの小説の中で怖れず提示しているのだ。
たとえば、十六歳のエディに向かってテッドが「事故の前から、あいつは気難しい女だった。つまり、もし事故がなくても、あいつは気難しかったに違いないってことだ」と、自分の前から去ったマリアンを非難するシーン。しかし、アーヴィングはエディの声を借りて、「それは、まさに男の言い分だった。それは、手に入らなかった女性について男が言う言葉だった」「男がこの言葉を言うときには、つねに女性を蔑むために言っている」と、テッドのマッチョな独善ぶりこそを批判し返す。
自分に都合のいいことだけを語り、都合の悪いことは隠蔽するという政治的な語り口を、アーヴィングは決して採らない。だからこそ、彼の作品は長大化に向かうのだろう。なぜ、テッドは不毛な女漁りをやめないのか。なぜ、マリアンは哀しみの淵からはい上がることができないのか。なぜ、エディは年上の女性だけに惹かれるのか。なぜ、ルースは本当に愛する男と巡り会えないのか etc. etc. アーヴィングは自分の作品に出てくるすべての登場人物の、すべての行為と感情について十全に語り尽くしたいと願うタイプの作家なのである。
たとえばアーヴィングは、ルースの朗読会に紹介者として出席しようと、雨の中ずぶ濡れになって会場へと急ぐエディのために、一章分もの文章を費やしてやる。小銭がないからタクシーを拾えず、小銭を作るためだけに欲しくもないダイエットコークを買い、ようやく乗り込めたバスの中では鈍くさいことばかりしでかしては乗客たちに「困りもの」扱いされ、やっとのことでたどりついた会場では一般客に間違えられ、三十二年ぶりに会ったルースの前なのに服も髪の毛も悲しいくらいびしょぬれで、長すぎる紹介の言葉で観客からもうんざりされる。そんな細かい描写のひとつひとつに、わたしたち読者は美しい年上の人妻にひと夏愛された十六歳の少年の面影や、その面影の上に降り積もった歳月の重さ(あるいは軽さ?)を見て取り、やがてエディを愛さずにはいられなくなっている自分に気づくという具合なのだ。
あるいは、テッドが卑怯にもエディを仲立ちにして女性と別れようとする〈ヴォーンさんを捨てる〉という章。テッドが描いたヴォーンさんの赤裸なポルノ画を手にエディが彼女の家を訪れ、逆上するヴォーンさんによってテッドが追いかけ回されるに至る一連のシーンがもたらす苦い笑いときたら、落語の名人の話芸もかくや。眼前にまざまざと浮かぶほど精密にディテールを描いたこの騒動の顚末によって、読み手はテッドがいかに男として最悪な人物なのか、この男が今後幼いルースにどんな悪影響を及ぼすのか、にもかかわらず生きている限りこの性根が叩き直されることはないだろうということが予感できるはずなのである。
そしてまた、母親がすべての愛を傾けている兄たちの写真が入った額縁のガラスで、人差し指をざっくり切った四歳のルースに十六歳のエディがしてやることと、言ってやること。「これから一生、勇気が必要なときには、ただ傷を見ればいいんだよ」。そして、エディはルースの抜糸が済んだ人差し指をケチャップに浸け、その指を優しく紙ナプキンに押しつけてやり、そのナプキンを水が入ったコップにかざして拡大するのだ。
「これがきみの指紋だよ――ほかに同じ指紋を持ってる人は誰もいない」エディは言った。
「それで、傷はずっとここにあるの?」ルースはもう一度訊ねた。
「傷は永久にきみといっしょだよ」エディは約束した。
このディテールが先に紹介したルースとエディの再会のシーンに、それからずっと後、ルースがようやく本当に愛する人と巡り会う際に、どれだけ伏線として効果を持つことか! アーヴィングが執拗に描く細部に、意味のないものなどひとつとしてないのである。なかでも最高のエピソードはというと……、いや、これだけは明かすわけにはいかない。この長い長い物語を、ルースやエディとともに生きた読者だけが、最後の最後で作者から受け取ることができる大きな大きなプレゼントなのだから。
さて、大勢の人物の多様な人生を神が宿りたもう細部の積み重ねによって描き倒すだけの体力と創作力に溢れたアーヴィングなのだから、四人の作家(テッド、ルース、エディ、さてもう一人とは?)が登場するこの作品で、お得意の文学的テクニックを存分に披露しないはずがない。それは小説内小説だ。世界中で読まれているというテッドの児童文学『壁のあいだをはうネズミ』や、幼いルースのひと言がきっかけで生まれた『誰かが音をたてないようにしているような音』、ルースが書く純文学の傑作の一部や、それ以外の作品の粗筋、エディがマリアンへの想いだけを綴った地味な佳作『夏のアルバイト』などの概略、そして“もう一人”の作家が書いたミステリー。それらの小説やルースの日記、創作ノートを本筋にちりばめる。つまりアーヴィングは、『未亡人の一年』という物語世界にそれ以外の法則で動く別の世界を重ねることで、登場人物たちの人生の選択やそれによる喜びや喪失感といった様々な感情が、読者によりリアルに伝わるよう腐心しているのだ。
緻密なディテールの積み重ねと、そのことで強化される伏線の妙、考え抜かれた構成、そして小説内小説の採用。文学愛好者が望みうる限りの、物語の面白さのすべてがこの作品には詰め込まれている。神は細部に宿る。アーヴィングは、そのことを痛いくらいよく理解している希有な作家の一人なのである。
【下巻】
【この書評が収録されている書籍】
ALL REVIEWSをフォローする




![ドア・イン・ザ・フロア [DVD]](https://m.media-amazon.com/images/I/51TMY15N4PL.jpg)





























