書評

『あの川のほとりで〈上〉』(新潮社)

  • 2020/07/16
あの川のほとりで〈上〉 / ジョン アーヴィング
あの川のほとりで〈上〉
  • 著者:ジョン アーヴィング
  • 翻訳:小竹 由美子
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(380ページ)
  • 発売日:2011-12-01
  • ISBN-10:4105191136
  • ISBN-13:978-4105191139
内容紹介:
ニューハンプシャーの山あいの小さな林業の町に暮らす、料理人とその息子。ある夜、寝室から漏れるただならぬ呻き声を聞いた息子は、父親が熊に襲われていると思い込み、ベッドの上の何者かをフライパンで撲殺してしまう。それは父の愛人であり、悪いことに町の悪辣な治安官の情婦でもあった。そして二人の逃避行が始まる-。構想20年!半自伝的大長篇。

歴史のように「個」を越えて生きていく物語

何て深く耕された物語だろう。驚愕(きょうがく)する。言葉を失う。というより、言葉でいっぱいになって、温かく、この上なく、満たされてしまう。ふーっ、とため息をつくのがやっとだ。だからほんとうは、誰にも言いたくない。「ケッチャム」がどんなに特別かということも、「ドーシードー」のことも(アーヴィングの小説がいつもそうであるように、今度の小説にも忘れられない言葉がたくさん埋め込まれている)。どの頁(ページ)の、どの一文にも物語の血が流れている。どこを切っても物語の肉が切れる。本のなかで、この物語は生きているのだ。

一九五四年のニューハンプシャー州から、この長い小説は始まる。すでに衰退の兆しが見えつつある、小さな林業の町から。そこには荒くれた労働者たちがいる。定住していたり、流れ者だったりする。そして、彼らに一歩もひけをとらずたくましい女たちがいる。

主人公ダニーは、労働者たちに食事を供する食堂の、コックの息子だ。母親はすでに亡くなっている。十二歳のダニーにとって、この土地が世界のすべてだ。男たち、女たち、林業、川、熊や犬、そして食堂。でも、事故が起る。きわめてアーヴィング的な、瞠目(どうもく)すべき事故(ダニーが父親の愛人を、熊と間違えてフライパンで殴り殺してしまう!)が。

父子は町を出る。逃亡生活が始まる。大切なのはあらすじではないとはいえ、二人はまずボストンで暮し、やがてカナダに移り、さらにまた移動する。どちらも誠実な人柄なので、慕われるし、友達ができたり女ができたりする。コックは非常に腕がよく、どの町でも仕事に打込む(その描写がすばらしい。一軒ずつの店の佇(たたずま)い、湯気や匂い、音、活気。人々の働きぶりや誇り、実に実においしそうな、その時々の流行や、地域のお客の生活や好みを想像させる料理。イタリア風だったりフランス風だったり、中華風だったり)。ダニーは店を手伝いながら成長し、結婚したり息子を持ったり離婚したりしつつ作家になる(この、ダニーの作家としての遍歴、および創作作法は、ユーモラスでややシニカルな、余裕ある手さばきでアーヴィング本人を彷彿(ほうふつ)させるように書かれている)。そうやって、父子が生きていくあいだにアメリカも変遷し、ベトナム戦争があり、ツインタワービルの崩壊がある。最終章は二〇〇五年。

それぞれの場所で、人々はつねに生活を営む。本文の小見出しにあるとおり、「事故の起こりがちな世の中」で。歴史がそうであるように、物語も個を越えて進む。個はそこから逃れられない。でも、物語を支えているのはつねに個だ。さまざまな、風変りな、厄介な、魅力的な。たとえばコックの親友であり、ダニーにとって二人目の父親のようなケッチャム、大女で力持ちでタフだけれど、やがて悲しいシックスパック・パム、複数の人間の回想のなかで生き続けるダニーの母親のロージー、それに勿論、熊と間違えられるインジャン・ジェイン。挙げればきりがない。小説の出だしで死んでしまうアンジェロも、気の毒なその母親も、ダニーを出征から守るために妊娠するケイティーも、実力派の料理人たちも、空から降ってくる女も。読んで、一人ずつに出会える喜び!

豊かな、濃密な、おもしろい小説である。あまりにもおもしろかったので、読み終ったあと、他の本を読みたくなくて困った。

この作家とおなじ時代に生きていることを、私はほんとうに幸福に思う。

【下巻】
あの川のほとりで〈下〉 / ジョン アーヴィング
あの川のほとりで〈下〉
  • 著者:ジョン アーヴィング
  • 翻訳:小竹 由美子
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(410ページ)
  • 発売日:2011-12-01
  • ISBN-10:4105191144
  • ISBN-13:978-4105191146
内容紹介:
追っ手を逃れてニューハンプシャーからボストンへ、そしてヴァーモントへ移り住んだ料理人とその息子。成人した息子は作家として成功し、父親となるが、やがて愛する者たちを次々に失ってしまう。運命に導かれるように、気づけば彼は故郷の町の川のほとりに辿り着き、かつて自分を守ってくれた樵の物語を書き始める-。ハートフルで壮大、待望の最新長篇。

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あの川のほとりで〈上〉 / ジョン アーヴィング
あの川のほとりで〈上〉
  • 著者:ジョン アーヴィング
  • 翻訳:小竹 由美子
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(380ページ)
  • 発売日:2011-12-01
  • ISBN-10:4105191136
  • ISBN-13:978-4105191139
内容紹介:
ニューハンプシャーの山あいの小さな林業の町に暮らす、料理人とその息子。ある夜、寝室から漏れるただならぬ呻き声を聞いた息子は、父親が熊に襲われていると思い込み、ベッドの上の何者かをフライパンで撲殺してしまう。それは父の愛人であり、悪いことに町の悪辣な治安官の情婦でもあった。そして二人の逃避行が始まる-。構想20年!半自伝的大長篇。

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毎日新聞 2012年2月12日

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