書評
『姿なき尖兵―日中ラジオ戦史』(丸山学芸図書)
ラジオ部隊の熾烈な電波戦
日中戦争の最中に行われた謀略宣伝のラジオ放送部隊の発端から終息までの八年余りにわたる貴重なドキュメンタリーである。昭和十、十一年ごろの上海には中国系、欧米系のラジオ局があわせて五十局近くもあった。「国際都市上海は世界の宣伝戦の火花が飛び交う熾烈な電波戦場」であり「声の弾丸」の撃ち合いは、ある意味で武力戦より凄まじかった。そこで中国派遣部隊に宣伝班が置かれた。まず絵画班、映画班、写真班がつくられ、各界のべテランが嘱託として徴用された。作家の石川達三、詩人の三好達治、評論家の大宅壮一らである。放送班はやや遅れて設置され、NHKからの出向職員が充てられるが、昭和十三年になると軍報道部に編入されて本格的な謀略宣伝戦を担わされた。日本軍が南京に侵攻すれば放送局もまた増えるという具合に、電波戦も戦線の拡大に合わせ激しさを増していった。中国の戦場は広く、どちらが優勢なのかわからない。人びとはラジオを聴きながら半信半疑でそれぞれの言い分を耳にしつつ生き延びる方向を模索していたのである。
だが電波戦は仕掛け人の思惑を越え、放送独自の論理を生きる。日本人にとっては横綱双葉山の慰問講演は感激だったし、中国人にとっては“素人のど自慢大会”が戦争を忘れさせてくれたのだ。
しかし、ナチスドイツにはその功罪はともかくゲッベルスという天才的な宣伝大臣がいたが日本の戦争指導者は大和魂だ、根性だ、と尻を叩くばかりでほんとうの意味で放送という文化を理解する余裕はなかった。戦争末期、放送局員もつぎつぎと召集され、局の運営は窮地に立たされたのだった。
今年はテレビ放送開局四十年だが、こうした忘れられた前史を振り返る機会はもっと増えたほうがよいだろう(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は1993年)。著者は戦後、南日本放送(鹿児島県)に入社、昭和五十八年から二年間、代表取締役社長を務めた経歴の持ち主で、戦争はつい昨日の、放送人としての苦い思い出のなかにあるのだ。
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