書評

『争いの樹の下で〈上〉』(新潮社)

  • 2021/12/23
争いの樹の下で〈上〉 / 丸山 健二
争いの樹の下で〈上〉
  • 著者:丸山 健二
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(344ページ)
  • 発売日:1996-05-01
  • ISBN-10:4106006596
  • ISBN-13:978-4106006593
内容紹介:
「争いの樹」は見た。首吊りの女が嬰児を産み堕した瞬間を。奇跡の子の、これから始まる壮絶な生涯を。生と死のドラマに充ちた千年の過去を。真夏の日差しがぎらぎら降り注ぐ現在を。そして、親もなく家もなく名前すら持たず、ただ個の自由を求める奇跡の子の輝ける未来を。

樹木の夢見る時——『争いの樹の下で』を読む

ある作家の「全短篇集」と銘打った本や、短篇、長篇はもとより評論・エッセーの類まで収めた「全集」というものがある。前者はもちろんだが、見ようによっては後者も全体として一冊の本とみなすことも可能だろう。しかしそれを本と呼んでも、実際には収録作品はそれぞれ独立しているのであり、本来の意味での一つの作品、一冊の本ではない。しかし、ある種の作家はときに、先行作品のすべてを取り込んだ本を書いてしまうことがある。それは俗に集大成とかスンマ・ポエティカなどと呼ばれることになるだろう。たとえば中上健次の『枯木灘』はそれに似た性格を備えた作品だ。もっともよく知られているのは、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』で、そこでは様々な先行作品に現れた異なるトポスや人物たちは溶け合って、あたかもその作品のために産み出されたかのような印象を与える。

これは直感だが、丸山健二の『争いの樹の下で』は、現在までの彼のスンマ・ポエティカではないかという気がする。それは彼のあらゆる先行作品を含みながら完全に独立した世界を築いている、あるいは一個の自立した宇宙でありながら、インターテクスチュアリティーを有しているように思えるのだ。この作品に圧倒されるのは、千六百枚という長さもさることながら、テーマ、モチーフ、スタイル、テクニックを含めたその集大成的性格によるのではないか。

たとえば、語り手について見れば、それは都市化の波が押し寄せる森の中に立つ、樹齢千年という大樹であり、この樹が「私」として物語を語るという体裁をとっている。その意味では、乗り手を換えながら五十年間生きたオートバイを語り手とする『見よ 月が後を追う』や二眼レフ・カメラによって語られる『白と黒の十三話』に連らなる小説であるが、さらに人間以外の事物が語るということではそれらの先行作品として『千日の瑠璃』が存在する。とすれば、千の事物による断片的言説のコラージュという形式で、ある町とその住民を描き出そうという破天荒な試みは、一本の樹にすべてを語らせるのに必要な実験の第一段階であったと見ることもできるだろう。また、オートバイもカメラも結局人為的な死を遂げるのだが、「争いの樹」もまた人間の手で爆殺される。その点でも『見よ 月が後を追う』、『白と黒の十三話』と本書は共通している。

しかし、決定的に違うところがある。それはオートバイもカメラもその主に密着し、共に移動しつつ観察し、語ることができるのに対し、大樹は動けないことである。つまり、この樹の下で産声を上げた常に「おまえ」と呼ばれる子供が、かりに人によってであれ猿によってであれ救い出されたならば、その行方を見届けることはできないはずだ。そこで作者は大樹に、「どうやら私の心とおまえ(子供)の脳が目に見えぬ糸で結ばれつつあるようだ」と言わせ、たとえ子供が移動しても映像を通じてその行動が見えることの理由とする。そして二十八年に及ぶ子供の成長と遍歴を半日のうちに見ることになるのだが、しかしその近未来の映像はおそらく大樹の幻視なのだ。したがって映像は鮮明でありながら、ときに矛盾したバージョンを生む。それはこの見者とも言うべき大樹には感情があるためで、その欲望が想像力に訴えるからだと思われる。

いずれにせよここには、樹木や森に象徴される自然も地球も生命体であるという考え方が提示されている。それはオートバイやカメラが生命を宿しているという設定よりははるかに受け入れやすいアニミズムだろう。そして作者はこのアニミズムを文学的な力として敢えて用いている。敢えてと言ったのは、かりに作者がそのインタビュー(「波」96.5)で明かしているように、嬰児の未来を幻視する大樹のアイデアがロマン派的なひらめきから生れたとしても、彼はそれを自覚的に使っているからである。さらにそのアニミズムの種類を限定すべく、大樹に、自分に「霊的意志が宿っていることはない」とも言わせている。

ところで、森から動くことはできないが、思考し信念を述べる大樹の姿はどこか作家の姿に似ていないだろうか。それは孤高を守り、文明を批判する見者である一方、千年の歴史にまつわるエピソードを物語る語部でもある。この大樹は危機意識を持ち、夢を見る。その夢は、どこかボルヘスの「円環の廃墟」に似ている。ボルヘスの短篇では、主人公の男が神殿の廃墟へやってきた目的は次のように書かれている。

彼をここへ引きずってきた目的は、たしかに超自然的ではあったが、不可能なものではなかった。彼の望みは、一人の人間を夢みることだった。つまり、細部まで完全なかたちでそれを夢みて、現実へと押しだすことだった。(鼓直訳)

争いの樹もまた夢から子供を生み出す。その子供はやがて成長し、遍歴の後に、歴史を動かすほどのテロを単独で行う。つまりその子供は大樹のありうべき姿、分身なのだ。大樹である「私」は子供に対して常に「おまえ」と呼びかける。

そこにもしも大樹=作者の願望がこめられているとすれば、その二人称の記述のあり方は、キューバの作家レイナルド・アレナスの『めくるめく世界』のそれにきわめて近いものとなる。その小説では主人公である革命的破戒僧の波瀾の生涯が三種類の人称で語られる。すなわち三人称によって客観的史実が、また一人称によって自伝が語られるのに対し、二人称が用いられるのは、事実がかくあればという作者の願望を交えた記述においてで、そこでは作者は主人公に一体化している。『めくるめく世界』を書いた当時、アレナスは、反体制作家として文字通り動くことができなかった。一方、主人公の神父は脱獄しては世界を駆け巡る。作者の見果てぬ夢がその人物に投影されていることは明らかである。それと同じことが、大樹=作者と子供の関係にも当てはまるのではないか。子供を夢見る大樹を夢見る作者。さらにそれは父と子の関係ともなり、一方で作家と作品の関係のアナロジーとなるだろう。

もっとも大樹の性は正確には不分明だ。花を咲かせ実を結んだとあるから、生物学的に言えば雌のようでもある。しかし、縊死した女に対する批評や幹に淫らな真似をした市子のエピソードなどから判断する限り男性と考えていいだろう。小説のラストに、人間によって倒されるとき大樹は、唯一結んだ実を縊死した女の胎内に埋め込み、女の死体は腐葉土のはるか深いところへ埋められたとある。様々な解釈を生みそうな謎めいた一節だが、その実をタイムカプセルと取るにせよ、作品と取るにせよ、この象徴的行為も大樹が男性であることを示しているとは言えまいか。

さらに、大樹が一九九六年真夏に見た二十八年分の近未来の映像は、作者の経験や創作の歴史を含んでいるようでもある。作者の経験についてはこちらに伝記に関する知識がないので想像の域を出ないが、しかし大樹の幻視する映像には、作者の「流れゆく者」として過ごした過去の日々への思いがこめられているようでもある。そうしたノスタルジーの要素はともすれば感傷性を招くことになるのだが、作者はその思いを期待という形で未来に向けることで、感傷性の罠をかわしている。創作については前述のアニミズムの件や『ときめきに死す』でテーマとなったテロリズム、オートバイ小説を彷彿させる車での逃亡など、ただちに過去の作品との関連を思わせる要素は数多く見られる。スタイルについても、実験的というほど極端ではないが、以前の作品において試みられた独得の分節や段落分けが認められる。中でも特徴的なのが、列挙法とでも呼ぶべきスタイルで、作者はそれを文明批評や社会批評を行うときに好んで用いてきた。『争いの樹の下で』においてもこのスタイルは繰り返し用いられているが、その代表的な例を一部引用してみよう。

依然として話にもならない経済市況。
権力によって殺されかけている安楽死の法案。
甚大な被害をもたらすに違いない次なる大地震の予想に
 関しての水掛け論。
商業的情熱に依拠する軍需産業の台頭。
インターフェロンの抗癌性の効果のほど。
野放図に広がる破滅の刻印を帯びた地球環境。
住民基本台帳番号を更に一歩進めた国民管理の具体案。
外国との密約を結ぶための交渉がぎりぎりの決着をみた
 詳らかでない事情。
科学が果たし得ぬ使命の数々。
支えきれなくなってきて、いよいよ減り始めたこの星の
 人口。

この巷の「噂」はさらに十二行にわたって列挙されている。小説に詩を挿入することは早くもセルバンテスが『ドン・キホーテ』で試みているが、それは独立した詩であって、引用した断片のように、本来地の文に組み込まれるべき性質のものではない。だが、『争いの樹の下で』から前掲個所を引用したのは、それがオクタビオ・パスの詩を連想させたからである。次に引用するのは、「帰還」と題する詩の一節である。

悪夢が萌す
癩のイメージがはびこる
腹に脳髄に肺に
寺院や学校の性器に
人知れず
    欲望が棲みつく映画館に
    (中略)
災厄の草木が
底上で熟れる
      メキシコ銀行で
数え切れぬほどの反古紙幣が
燃やされる

このようなスタイルは元来詩のものであり、『争いの樹の下で』にいまだ「詩小説」的匂いが感じられるのは、この種のスタイルが散見されることにもよる。引用したパスの詩にはおそらく「荒地」が木霊しているが、丸山健二がそれらの詩人が時代に看て取ったのと同じ閉塞や退廃を現在に感じ、詩の形式で表現しているのは興味深い。またこの「列挙法」の詩的効果を巧みに使うのがガルシア=マルケスである。ただ、彼の場合そこにユーモアを感じさせる点が、先の詩人たちとは異なっている。丸山健二の列挙法は必ずしもユーモアは感じさせない。そこに漂う雰囲気は、むしろペルーの現実を描いたバルガス=リョサの政治小説『ラ・カテドラルでの対話』に近い。すなわち、鋭くペシミスティックでアグレシブな批判精神の横溢を感じさせるのだ。しかも抑圧的な状況とそれを前にして受動的な姿勢しか示さない人々に対する怒りを露にするという点では、丸山健二はバルガス=リョサよりも徹底している。

『争いの樹の下で』がスケールの大きさを感じさせる理由の一つとして、そこに歴史的時間と神話的時間が混在していることを挙げてもいいだろう。あるいは歴史的時間がずらされている。この物語の現在である一九九六年真夏という時間自体、もともと近未来である。もちろんオーウェルの近未来小説『一九八四年』も意識しての設定だろう。牧歌的なSFのようにタイムスパンを大きく取らず、時差を小さくして未来を描こうとするのは、たぶん作者の現在に対する危機意識がきわめて強いためである。先に挙げたバルガス=リョサが『マイタの物語』で、時を近未来に設定しつつ描いたのは、ゲリラや都市のスラム化といった現在のペルーの抱える問題だった。我が国でも村上龍が時間をわずかに五分ずらすことでパラレルワールドを描き、現在の状況を痛烈に批判していることはいうまでもない。これらの作家に共通するのは、まさしく切迫した危機意識である。そもそも争いの樹が近未来を幻視するのも、が現在の状況に危機意識を抱いているからに他ならない。

大樹が幻視する二十八年の凝縮度とスピードとは対照的に、それまでの千年は実に悠長に語られる。そこに流れるのは、あるいはほとんど淀んでさえいるのは、神話的時間である。だいいち、千年という神話的数字そのものが怪しい。それは語部たる大樹が自己申告しているにすぎず、根拠はない。大樹によって語られるいくつかの過去のエピソードはさながら説話のようである。それらもいつのことなのかは正確には分らない。そして大樹にとってはそれでもよかったのだ、が危機意識を持つまでは。しかし、大樹は一九九六年真夏に、神話的時間のまどろみから覚醒し、現在を痛切に意識する。その樹の下で、縊死した女に産み落とされた子供の未来を意識したからだ。こうして大樹は時の流れを過去・現在・未来の三つに分節し、歴史意識を獲得する。一方、子供が生まれたことは事実であることが大樹によって断言される。本書を読むときに問題になるのはまさにその「事実」である。先にボルヘスの短篇に触れたところで、私は大樹の夢が子供を生み出すと書いた。一読者としてはそのように読みたいのだけれど、大樹の言葉を信じるならば、子供は実際生まれたことになる。ではかりにこれを認めたとしよう。すると次に問題になるのは、野猿たちが集まり、そのうちの仔に死なれた雌猿が件の嬰児を連れ去るというエピソードで、これは大樹が見た未来の映像とは異なっている。映像によれば、子供は農民に助けられるからだ。その結果、ここには奇妙なねじれが生じる。すなわち、農民が救うという現実的バージョンが非現実で、猿が救うという非現実的バージョンが現実であるというねじれた関係だ。後者のバージョンは、むしろ新たな神話を生む可能性を孕んでもいるのだが。いずれにせよ猿のエピソードは幻視ではなく、大樹が実際に見たことになる。そしてもう一つ、大樹自身の最期だが、これも事実であるとするなら、それを語っているのは誰なのか。当然この問題は、オートバイやカメラにも生じたはずのものである。とりわけ大樹の最期はオートバイの最期に似ている。なぜなら両者には転生という考えが見られるからだ。だとすれば、『争いの樹の下で』の真の語り手は死せる大樹ということもありうる。

そんなことを思うのは、ガルシア=マルケスの『族長の秋』を思い浮べているからだ。『族長の秋』は独裁者の死の場面から始まり、物語は円環を描いてはまた同じ場面に戻る。中に無数のエピソードを詰め込んでいながら、ストーリーは少しも進んでいかないかの印象を受ける。語り手はおそらく複数だが不明で、しかも変化する。一方、『争いの樹の下で』は、語り手は大樹であることが一応明らかにされている。ただ興味深いのは、常に立ち返るのが母親の死と子供の誕生の場面であり、『族長の秋』同様、描写が少しずつずれていることだ。このずれの原因はいずれも語り手の欲望にあるだろう。語り手は自分(たち)が見たいことを見て、そして語るからだ。『族長の秋』の場合には、人々はあるがままではなく予言に一致するように死体を見るという皮肉がそこにあった。つまりそうした態度が神話を生み、生きながらえさせるというのだ。これに対し『争いの樹の下で』では、見て語るのはあくまでも大樹のみで、集合的無意識といったものではなく、個、単独者なのだ。したがって、語りのずれもすべて大樹自身に帰することになる。

ここで浮上してくるのが作者特有の単独者というモチーフである。争いの樹は、素姓は不詳であるものの、森の中では群を抜いて大きい。それは決して木々の一本ではなく、おそらく唯一思考する特別な存在であろう。ここに見られる個へのこだわりは、主人公が成長した後に行う殺人が、単独者によるテロということと関わってくるだろう。すなわち、自立した単独者であることを誇り、群れることをよしとしない大樹にとって、分身たる主人公の行動は、それが結果的に個人に対するテロとなろうが革命となろうが、大樹自身の美学が貫かれていなければならないし、動機はすべて個から出たものでなければならない。その美学とは概ね「猿の詩集」という架空の指南書に書かれているものである。

「単独でも成立することはある」と詩集で老猿は言っている。確かに主人公は冷酷な拷問者をナイフで殺すことには成功した。そして死を賭して黒色火薬を爆発させることにより、「この国の牛耳を執る者」を滅することにも成功する。だが、そのテロは大樹が言うように、「個人から始まる争いであっても、みるみるうちに国民全員、ひいては他国の民にも差し響くことになる」のだろうか。残念ながら大樹は、独裁を振う精力的な小太りの小男亡き後を幻視することはできず、自らが開発業者たちの手で爆殺されてしまう。そして輪廻転生をめざして旅立っていく。

ただ、この小説を「政治小説」として読む場合、そこに描かれた独裁者のイメージはいささか貧弱ではないだろうか。確かに小説の中で拷問者は言っている。愚民に対してはヒーローもどきを与えればいい、実際に舞台を動かしているのは陰にいる専門家たちなのだから、と。彼はさらに、「大衆に担ぎあげられた人物は、担がれることによって、周りからちやほやされることによって、いつしか本当に闇路を照らす光を放つようになるのだ。そして、歴史を左右するようになるのだ」と続ける。この言葉は部分的には正しい。ガルシア=マルケスが『族長の秋』で暴いてみせたように、独裁者は民衆の神話によって生み出されるからだ。

ここで一つ指摘しておきたいのは、『争いの樹の下で』において描かれる独裁者像が、主人公と大樹の眼による合成であることだ。彼らはいずれも独裁者を批判する点で一心同体である。一方、彼らは独裁者を生み出す民衆の衆愚を痛烈に批判する。問題は、このときの彼らのポジションで、本書を読む限り彼らは民衆とは距離を置いている。『族長の秋』とは異なり、独裁者の心理やそのような人物が生み出されるメカニズムが必ずしも執拗に描かれていないのは、あるいは描けないのは、その距離のためと思われる。

しかし、その距離には必然性がある。本書の主眼は独裁者を描くことではなく、テロリストを描くことにあるからだ。主人公に焦点が当てられている以上、独裁者は副次的な存在となるだろう。作者の悪意を別とすれば、そのイメージが貧弱な理由はどうやらそこに求められそうだ。この小説では個としての主人公が輝かなければならないのである。

さらに日本の権力構造を扱う場合には、作者が強い関心を示している天皇制というシステムのことも考慮しなければならないし、それは独裁者像の問題とも関わってくるだろう。いずれにせよ、本書は実に多くのことを考えさせる、挑発的で刺激的な小説だ。物語には、作者のストーリーテリングの力が存分に発揮されている。また、ピカレスク・ロマン、政治小説、海洋冒険小説をはじめ、多種多様なジャンルが巧みに用いられ、数々の伏線を経ながら読者をクライマックスのカタストロフへと誘っていく。一時期の形式へのこだわりもここではほどよく調和し、ストーリーを切断することはない。『野に降る星』で語られる、神社の使いの猿のフォークロアを連想させる猿の存在も謎めいていて魅力的だ。本書を読みながら、久しく忘れていた「全体小説」という言葉を思い浮かべた。

【下巻】
争いの樹の下で〈下〉 / 丸山 健二
争いの樹の下で〈下〉
  • 著者:丸山 健二
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(406ページ)
  • 発売日:1996-05-01
  • ISBN-10:410600660X
  • ISBN-13:978-4106006609
内容紹介:
奇跡の子は見た。二十一世紀日本に台頭する新たな全体主義を。孤なる魂を導く謎の詩集の力を。首都を壊滅させ、国の力と民衆の理性を奪った大地震を。愚衆を思うがままに操る独裁者の登場を。そして、個の自由を汚した巨大な敵が目前にその姿を現した決定的な一瞬を。

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争いの樹の下で〈上〉 / 丸山 健二
争いの樹の下で〈上〉
  • 著者:丸山 健二
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(344ページ)
  • 発売日:1996-05-01
  • ISBN-10:4106006596
  • ISBN-13:978-4106006593
内容紹介:
「争いの樹」は見た。首吊りの女が嬰児を産み堕した瞬間を。奇跡の子の、これから始まる壮絶な生涯を。生と死のドラマに充ちた千年の過去を。真夏の日差しがぎらぎら降り注ぐ現在を。そして、親もなく家もなく名前すら持たず、ただ個の自由を求める奇跡の子の輝ける未来を。

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初出メディア

新潮

新潮 1996年7月

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