書評
『ソル・フアナ・イネス・デ・ラ・クルスの生涯―信仰の罠』(土曜美術社出版販売)
十七世紀、ゴンゴラに比肩するその詩才を早くから認められて、〈十人目のミューズ〉と称えられたメキシコ・バロック期を代表する存在尼僧フアナの謎を追った、オクタビオ・パスのエッセー集が出版された。
「作品にはあるが作者の伝記にはない何かというものが存在する。その何かとは、芸術的及び文学的創造ないし創作である。詩人、作家とは、まさしく梨の実をつける楡の木に他ならない」そう、オクタビオ・パスの声だ。昨年十一月、七九年の『隣接/仲介』以来久々に、彼のエッセー集『フアナ・イネス・デ・ラ・クルス尼あるいは信仰の罠』(バルセロナ、セイクス・バラール社)が出版された(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は1983年)。
その本を開き、引用箇所を含む序文を読み始め、余韻を残しつつ弁証法的に進む彼一流の文体に再会したとたん、なぜかひどくなつかしい気がした。ハーハード大での講義録やコレヒオ・デ・メヒコでの講演メモ、録音テープなどをもとに書かれた本書は、彼の作品としては異例の六六〇ページという大部で、フエンテスの長篇『我らの大地』とエッセー集『セルバンテスまたは読みの批判』を想起させる雄大なスケールを持っている。
だがその胚種は、『楡の梨』(五七)に収録されている「フアナ・イネス・デ・ラ・クルス」と題する短いエッセーであり、それが書かれたのは一九五〇年だから、本書に結実するまでに三十年余の歳月が流れたわけだ。途中、執筆を放棄しかけたこともあるとパスは言う。十七世紀、ヌエバ・エスパーニャと呼ばれた植民地時代のメキシコで梨の実をつけた楡、それが尼僧フアナだ。
上流階級に生れた彼女は才色を兼ね備え、ゴンゴラに比肩するその詩才を早くから認められて、〈十人目のミューズ〉、〈アメリカ大陸の不死鳥〉と称えられたメキシコ・バロック期を代表する存在である。しかし彼女の生涯にはいくつもの謎がつきまとう。若く美しい彼女がなぜ尼僧になったのか? 彼女の精神的・官能的愛の本性はいかなるものなのか? その作品「最初の夢」の詩史における意味と位置は? 晩年に至り、学問と知識を放棄した理由は? その放棄は改宗あるいは脱宗の結果なのか?
本書においてパスはそれらの謎を、時空を越えた考察によって解明しようとするのだ。だがその謎解きは単なる謎解きに止まらない。つまりその知的冒険を通じて、十七世紀メキシコの知の状況、精神的風土が浮び上がってくる仕組みになっているのである。
フエンテスは国土再征服以前のスペインの、カトリック、ユダヤ、イスラムの三文化が融合していた状況をひとつのユートピアと見ているが、同様にパスは、カトリック文化が土着文化等に対し寛容だったメキシコの植民地時代の一時期を、多くの欠点を指摘しながらもユートピア的なものとして見ている。そのような状況だったからこそ、つまり女でありながら、また尼僧となっても、フアナは学問を続け、官能的な詩を書くことができたのだ。
ところが彼女は晩年沈黙してしまう。そしてその沈黙の中に、パスは社会の状況の変化を看て取るのだ。社会の検閲そして作家の自己検閲、「信仰の罠」という副題は、その今日にもつながる問題の暗喩となっている。
初出メディア

海(終刊) 1983年6月号
ALL REVIEWSをフォローする