書評

『呪法と変容―試論集』(竹内書店)

  • 2022/01/07
呪法と変容―試論集 / 鷲巣 繁男
呪法と変容―試論集
  • 著者:鷲巣 繁男
  • 出版社:竹内書店
  • 装丁:-(266ページ)
  • 発売日:1972-11-26
定本『鷲巣繁男詩集』冒頭の扉には、「わが書の扉が固く、多くを拒む」の句にはじまるエピグラマが掲げられている。一読、まことに扉は固く、軽薄なスノビズムの立入る隙はあらかじめことごとく封じられている。その荘重にして晦渋な語法、詩形の高らかに天空を突くカテドラルを思わせる構築性、荘厳な祭具や装飾を燦然と鏤ばめたビザンチン教会内陣のような絢爛たる玻璃質のメタファー、すべてが花鳥諷詠の抒情に自足している大方の温湿詩的感性には、異和感にみちた焦立たしい拒否反応を惹起させるにちがいない。

とはいえ、この、「人工と鉱物のように張りつめた」「一点の雲もない碧落」(「マルキオン」)を知らずに、風土の自然にひれ伏して一回限りの抒情に耽溺することのできる資質には、「純粋という夢想」に無縁であることのそれなりの未熟な幸福があって、鷲巣氏はおそらくそれを知っている。むしろそれよりは、この伽藍の金螺鈿玉をちりばめた内陣の豪奢に、訳知り顔を装ってあわただしく出入りする観光旅行客にこそ、詩人の側からする拒絶の忍び返しが張りめぐらされるのである。扉は開かれていながら固いのだ。詩形の異国趣味や学識の博大な蒐集室のみに酔えば事足りる客にはそれなりの応待を辞しはしないが、さりとて公開された一切から観光客が持ち帰るものは観光の追憶であって、そこに読みとるべく打ち明けられていた秘儀ではない、といった信仰者の狡知に足けたミスティフィカシオンがいたる処に仕掛けられているのである。

この二重の拒絶が鷲巣氏の詩作の根拠であるとすれば、試論集『呪法と変容』は、詩人が自ら恃むこの酷烈な根拠に下した検証の測鉛ともいうべきエッセイ集である。自然への愛が、純粋の形が聳立するその力を汲むつきせぬ源泉ではなくして、土俗の閉塞性への埋没に終るならば、普遍のあまねき光明はついに訪れないであろう。だが、反自然的な純粋の玻璃の構築が必然的に要請する技術(テクネー)が冷ややかな愛なき合理主義に堕するならば、詩想は不条理の弾機を失って凋落するであろう。この二律背反はすでに言葉そのものに内在する詩の可能と不可能の契機である。「儀礼と偶然」と題する章のなかで鷲巣氏は右の消息についてつぎのように書く。

しかし、サンボリズムは〈ことば〉に対して、より深いペシミスムによって支えられている。〈ことば〉の論理的な概念的なものへの不信は、ことばとその関係が作り出す、ほのめかし、ことばの力以上のもの、つまり非存在を思わせるものの存在感を与えるという逆説的な志向の上に成立している。ことばへの不信というものを逆手にとって、見えない、聞えない、感じないものを、見せ、聞かせ感じさせようという秘儀的な悲願がそこにはある。

これを一片のサンボリスムの解説と読み過してしまうには、試論集の全体はあまりにも緻密かつ堅固である。神そのものは自らは語らず、姿を見せず、不可解である。そのために、父なる神は子であるロゴスを遣わした。しかし人びとがロゴス自らは語らぬ神への逆説的な回路であることを忘れて、いたずらにロゴス自体の体系化たる論理学(ローギク)で耽るならば、神は隠れる。いわゆる言語不信がここで明かにしたものは、じつは論理学の破産にほかならない。しかし、詩にとっては、ロゴスがそのへり下りにおいてロゴス以上のものを指し示す使者であることは自明の出発点であろう。鷲巣氏はしたがってかならずしも知識や技術を排除しない。むしろその許容量はペダントリーと見紛うくらい過剰でさえある。しかし、それはいわば神聖詐術のごときものであって、神の聖なる沈黙と一体化するためには、沈黙言語言語による沈黙という神速の反射運動が必要であることを詩人は知っているのだ。西脇順三郎について語った犀利な洞察も、この血肉と化した三位一体説に由来するものであろう。

ウイットというのも、それはそうした時のコトバと存在のズレであって、パロディというのも〈意味〉というものの固定化の揺り動かしにあるのである。我々はパロディを単に文字の類似に於て考えるべきではなく、文字以前のコトバ――音がいくつかの文字に分から存在するという両義乃至多義に放射する〈可笑しさ〉(中略)を考えるべきで、それが時に主留レアリスムの姿に似るのであろう。(「永久運動」)

ここでも論じられている題目は、自然と純粋との関係であり、存在的であることと存在論的であることの二律背反と、その二律背反の緊張の上にはじめて可能となるべき存在論的言語という純粋結晶への熾烈な夢想である。「オルペウスの反覆」というエッセイでは、自然と純粋の対比は母性的原理たる「土俗」と父性的原理たる「精神」の対比に変奏され、「放浪と幻化」の章では、存在の根源的なものが定着民ではなく、むしろ変転つねない流浪者によって保持されてきた逆説の秘密が語られる。その間、鷲巣氏の筆は、大旅行家の歩みのごとくビザンチン神学からトリスタン物語へ、ギリシャ悲劇からわが説教祭文へ、詩経からサン・ジョン・ペルスへと縦横に駆けめぐって倦むことがない。その一節ですらも厖大な読書体験に支えられている個々の問題にたいして、私ごときはただ呆然としして嘆じ見るほかになすすべを知らないが、詩人はほとんど無邪気な巨人のように広大な世界を眼下に指呼しつつ軽やかな国引きの業(わざ)に戯れている。この一見コスモポリットな精神混淆(ソンクレティスム)、衒学的に枚挙されたかに見える綴れ織は、しかしついに習合して一つの普遍の王国を招来すべき旅の途上の賑やかな景物である。この細目へのあくなき偏執と普遍の希求の二律背反があればこそ、鷲巣氏は一つの確固たる「世界(ムンドゥス)」を構築した詩人たりえた。言うまでもないが、「世界(ムンドゥス)」を構築した詩人は、とりわけ今日、稀有なのだ。

ところで、右に断片的な感想を縷々書きつらねてきたこのエッセイ集の読後感を、いま一口で言えと迫られたならば、私は即座に「やさしさ」と答えるだろうと思う。繊細と素朴がたがいに響き合っているような鷲巣氏独特のやさしさは、詩友高橋睦郎氏に捧げられた無類に行き届いた作品評、「幻神輝耀」にもっとも躍如としているが、私の言う意味は個別的な具体例に限らない。自ら意図せずして悪をおこない、悲惨な死を通じて世界を浄めるオイディーポスと、その悲惨を包摂する女神エウメンデスの慈愛について語るときにも、たえず母なる土俗へと降りながら文明をふり返るオルペウスの反覆について語るときにも、くり返し現われる、詩人の男性的な訣別の身ぶりがその剛毅そのものを通じて打ち明けている愛への確信が、思うに、あの類いないやさしさの源泉であるに相違ないのである。
呪法と変容―試論集 / 鷲巣 繁男
呪法と変容―試論集
  • 著者:鷲巣 繁男
  • 出版社:竹内書店
  • 装丁:-(266ページ)
  • 発売日:1972-11-26

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現代詩手帖 1973年1月号

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