「役に立たない」科学が役に立つ
毎年ノーベル賞の発表があると、「この研究は何の役に立つのですか?」という質問が受賞者にしばしば投げかけられます。その意図は、研究成果が私達の生活をどのように便利にしてくれるのですか、ということだと思いますが、科学者は必ずしも何かに役立てるという目的で研究しているわけではありません。自然をより良く理解したいという好奇心に突き動かされて行った研究が、結果として役に立つということの方が多いように思います。私自身は宇宙初期や中性子星を研究する理論物理学者ですが、自分の研究の有用性を問われた時に、「残念ながら全く役に立ちません」あるいは「役に立つかもしれませんが100年後かも」と答えるべきか、あるいは「芸術と同様に文化活動としての意義があります」と答えるべきか悩みます。プリンストン大学出版局から2017年に出版されたThe Usefulness of Useless Knowledgeは、1930年に設立されたプリンストン高等研究所の創設者アブラハム・フレクスナーのエッセイ(1939年)と現所長であるロベルト・ダイクラーフのエッセイ(2017年)を収録した100ページに満たない書籍です。この本のなかで、基礎研究に関する豊富な実例を挙げながら、フレクスナーは「有用性という言葉を捨てて、人間の精神を開放せよ」、ダイクラーフは「役に立つ知識と役に立たない知識との間に、不明瞭で人為的な境界を無理やり引くのはもうやめよう」と述べています。2018年の秋に、理化学研究所にある数理創造プログラムの同僚である多田司さんと私が、偶然にも独立にこの原著を読んで感銘を受け、日本語で広く読んでもらいたいと考えるに至りました。幸いにして、野中香方子さん・西村美佐子さんという素晴らしい翻訳家に巡り合うことができ、さらに、原著にあらわれる様々な科学用語と科学者の解説を、サイエンスライターの荒舩良孝さんにお願いすることで完成したのが、2020年7月に出版された『「役に立たない」科学が役に立つ』(東京大学出版会)です。
フレクスナーのエッセイの原文は難解な部分も多いですが、多くの方から邦訳はとてもわかり易く最後まで一気に読めるという感想を頂いています。また、豊富な訳注やコラムのおかげで、本文の内容をより深く理解できたという声もあり嬉しい限りです。原著の表紙カバーは、紫色一色のシンプルなものでしたが、日本語版では、多様な分野をサポートすることの重要性や未来への投資といった意味を含ませて「ノアの方舟」の絵画を使用しました。著者のダイクラーフさんからも、表紙カバーのメッセージはたいへん力強いですね、という意見を頂き意を強くしました。
この本は「この研究は何の役に立つのですか?」という質問に対する様々な答えを提供してくれています。また、基礎研究の目標や価値を積極的に社会に伝えていくことが、科学者の重要な役割の一つであることを認識させてくれます。一方で、現代社会が基礎研究を人材面でも財政面でもどのように支えていくべきかについては、まだまだ試行錯誤すべき点が多いのも事実です。この本が、社会の中の科学のあり方について、多くの人が考えるきっかけになれば監訳者としては望外の喜びです。
[書き手]初田哲男(理化学研究所数理創造プログラムディレクタ一、東京大学名誉教授)