書評
『夜の蝉』(東京創元社)
チャーミングな女子大生
小説の主人公には深い情熱と知性、要するに「性格」が必要だ。その最たるものは『赤と黒』のジュリアン・ソレルだろう。ところで、推理小説においては逆にそういう「性格」を必要としない。かえってじゃまになる。謎とその解読を主眼とする、ストーリー中心主義の推理小説の主人公(探偵・犯人)にジュリアン・ソレルのような人物を配置するわけにはゆかない。なぜなら、ジュリアンのような人間は推理小説の筋をはみ出し、謎から解への手順を完全に破壊してしまうからだ。推理小説にはほどほどの知性とほどほどの情熱を持った人間、つまりほどほどに一流の人間が要請される。チェスタトン、アガサ・クリスティ、エラリー・クイン、彼らの作品をみれば、探偵・犯人はジュリアン・ソレルはもちろん、ハムレット、ドン・キホーテであってはならないことがよくわかる。
北村薫の作品の人物たちは、みなほどほどに一流である。作品もみなほどほどに一流である。つまり推理小説として一級品なのだ。たとえば初期の一連の「円紫さん」シリーズ。僕は北村のものではこの「円紫さん」シリーズが群を抜いて好きだ。主人公は早稲田大学(?)国文科の女子学生である〈私〉。この〈私〉がほどほどに知性があってエレガントでデリケートでチャーミングで、いうことないくらい良い子で、〈私〉の身辺におきた事件の謎を、両手にすくった水のようにして噺家(はなしか)円紫さんのもとに運び、みごとな洞察と推理で解決してもらうというパターンなのだが、〈私〉が円紫と出会うのはたいていは円紫の落語会で、そのときどきの演題がまた謎の解と密接に、巧妙にからむ。ここらあたり、手に水を持った女子大生の歩の運びと円紫の語りが読んでいてこころよい。理におちず、韜晦(とうかい)せず、情味に欠けず、あきさせない。
代表例として『夜の蟬』。
〈私〉の姉を襲った恋のトラブル、それはお化けが出たせいなのだが、このお化けを様々な目立たぬほどの伏線を張りめぐらせながら円紫の演じる落語「つるつる」の中でみごとに退治する。お化けとはとりもなおさず人間の心にひそむねたみなのだが、これが〈私〉と超美人の姉との幼少時からの葛藤、その氷解へとみごとに展開して重なる。
まだ口紅をひいたことのない〈私〉が、深夜、酔った姉にむりやり流しに背中を押しつけられて、チロチロ落ちる蛇口の水で、透明の紅を指で唇に引かれるシーンなんか、はっと息をのむほどの美しさだ。
円紫さんの謎ときのあざやかさを楽しむことも、ただただこの紅さしのシーンのような場面の細部と細部の固有のかがやきを追うだけの楽しみかたもできる。
最後に、北村薫の小説に際立つのは会話のすばらしさだ。
われわれは百年かけて西欧近代小説の移入にこれつとめてきたわけだが、極言すればその会話体をいかに自家薬籠中のものにするかだった。漱石から丸谷才一、村上春樹に至るまで、これみなその試みだ。そして決してうまくいったとはいえない。北村薫の推理小説において、都人(とじん)の会話が完全にわれわれのものになった。断言してもいい。ご不審の向きはまず当たってみられよ。高村薫とおまちがえのないように。
主人公の女子大生〈私〉に評者の私が嫉妬したところがある。なにしろこの娘、やたらと本を読む。なのに栞(しおり)を使ったことがない。どこまで読んだかぜんぶ覚えていて、さっと元のページを開くことができる。
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