書評
『続・漱石先生ぞな、もし』(文藝春秋)
鴎外は「三四郎」を意識した
新田次郎文学賞受賞の「漱石先生ぞな、もし」の続編である。どうも書評は「正」を扱い「続」は無視するきらいがあり、そういう“差別”はよろしくない。夏目漱石の文学は国民的文化遺産だが、著者にとってはさらに強い因縁がある。著者の義母(夫人の母上)が松岡筆子(漱石の長女)だから、こうなるともう運命のようなもので国民を代表してもう一度、文豪の知られざる素顔を発掘してもらわないとならない。著者はそんな責務を感じてか、あるいは昭和史研究家としての探究心のゆえか、さらには長年の雑誌編集者の癖がこうじてか、微に入り細を穿ち、たとえば、「吾輩は猫である」に出てくる駄洒落「オタンチンパレオロガス」とは何ぞや、という考証を本気でやってしまう。
じつはこういう一見些細に見える疑問を解く過程で、ひとつの時代や文豪の内面などが浮き彫りにされていくのであり、その点での著者の筆さばきは見事。ふと僕は八年前に八十九歳で亡くなった森銑三の作風を思い出した。
さて漱石贔屓の著者は、正岡子規の句会で漱石と鴎外が初めて対面した事実を探りあて、両者の確執を衝いていく。「鴎外は漱石にたいしてなにやら気にしながら、赤ん坊の“人見知り”同様の、どことなくつれない態度を生涯にわたってとりつづけた」と述べながら、鴎外が「(漱石を)少し読んだばかりである。併し立派な伎倆(ぎりょう)だと認める」との一行を見つけ独りニヤッとする。なぜなら「『青年』の主人公は小泉純一、『三四郎』は小川三四郎。三、四より一が上であるばかりか、『純』の字をつけ、鴎外はこっちのほうが青年として純粋だといわんばかり」で「ストーリーも『三四郎』は三四郎が美禰子に『金を借りる』ことからはじまり、この借金を返すことにより終わる。『青年』は、純一が坂井夫人に『本を借りる』にはじまり返却に終わる」と同工異曲なのだから、ちゃんと意識していたのだ。うーむ、鴎外贔屓の僕も、これを認めざるをえない。
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