書評

『濁流―雑談=近衛文麿』(毎日新聞社)

  • 2022/03/31
濁流―雑談=近衛文麿 / 山本 有三
濁流―雑談=近衛文麿
  • 著者:山本 有三
  • 出版社:毎日新聞社
  • 装丁:-(224ページ)
  • 発売日:1974-01-18

東条暗殺計画のエピソードも

近衛文麿は山本有三と一高入学当時の同級生である。しかし交渉がふかまるのは第二次近衛内閣のころかららしい。声明文の草稿を依頼されたりすることもあったようだ。

昭和十九年一月八日に山本有三は入院中の近衛を帝大病院へ見舞いに行った。近衛は元気で、近いうちに退院できるかもしれないと言い、一緒に食事をとりながら話しあったという。そのおり近衛は自伝を書き残しておきたいともらし、結局その執筆を山本がひきうける形になった。山本有三は「時のはずみ」と称しているが、しかし同時代人としての責務の一端をはたしておきたいという気持ちが多少はあったのかもしれない。機密に属する文書を見せられたこともあり、日米交渉の経緯などについてもある程度知ることのできた山本としては、他の者にはまかせておけない思いもあったのであろうか。

「濁流」は〈雑談 近衛文麿〉となっていることでもわかるように、もともとは対談からはじまり、それをもとにして別に書き下ろされた原稿らしく、語り口のおもしろさを意識的にいかしている。それだけによそゆきの伝記などとは違う私記のおもしろさがある。この「濁流」は近衛を見舞ったおりの宿題をはたそうとした作品でもあるのだ。

しかしやっと序章にあたる部分を書き終え、近衛の出生前後の時代状況にふれただけで亡くなったことは、いかにも残念だ。著者自身も最後までこの仕事に思いを寄せていたことは、入院中の遺詠のひとつに、「今ここで死んでたまるか七日くる」というのがあることでもあきらかだ。近衛は帝国議会発足の翌年に生まれ、新憲法が発布される前年自殺している。いわば旧憲法とともに生き、そして死んだ貴族出身の政治家だったわけだが、それが近衛の生涯を考える上で注意すべきことだと述べているあたりに、この未完に終わった作品の構想がうかがわれるように思う。

山本有三は近衛伝の冒頭の部分にひとつのエピソードを記している。それは近衛から自伝を書き残す上での協力を委嘱されてから半年ほどたった時のことだ。山本は疎開先の栃木市で近衛の電報を受けとり、七月三日の早朝荻窪の荻外荘を訪ねた。そして政局の一大転換のために東条を倒す必要がある、万一の場合は暗殺をも辞せずという意向を伝えられる。そしてそのおりの声明文の代筆をたのまれた。だが実行方法などについては何もうちあけられず、わずかにそれをやるのは軍人だと聞いたにすぎない。

もっともこの計画は具体化せず、やがて東条の退陣となるが、このようなエピソードを紹介することによって、これまでの固定化した近衛像を修正する意図が感じられる。一般には弱腰の人物とみられていた近衛のかくされた側面を、公平な目で描きだすこと、それが山本有三の願いだったのではないだろうか。

【全集】
山本有三全集〈第12巻〉無事の人,濁流―定本版 / 山本 有三
山本有三全集〈第12巻〉無事の人,濁流―定本版
  • 著者:山本 有三
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:-(403ページ)
  • 発売日:1977-05-01

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濁流―雑談=近衛文麿 / 山本 有三
濁流―雑談=近衛文麿
  • 著者:山本 有三
  • 出版社:毎日新聞社
  • 装丁:-(224ページ)
  • 発売日:1974-01-18

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初出メディア

週刊朝日

週刊朝日 1974年6月7日

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