書評
『直筆商の哀しみ』(新潮社)
わたしは哀しい。まさに、“売文商”の哀しみ。というのも、新人のものとは思えぬ傑作として、本国イギリスのみならず国際的にも高い評価を受けたゼイディー・スミスの『ホワイト・ティース』、その売れ行きが芳しくないという話を聞いたから。なんでえぇ~っ!? メチャクチャ面白い小説なのに。国際的に通用するジェスチャー(中指を立てる)で、怒りを表明したい今日この頃。……ま、いいや。じゃ、第二作目の『直筆商の哀しみ』のほうから読んでみて。さすれば驚嘆。彼女を無視してきた己の不明に恥じ入って、書店に急行すること間違いなしなんである。
主人公は、中国人の父親リ=ジンとユダヤ人の母親との間に生まれたアレックス=リ・タンデム、二十七歳。職業は有名人のサインや手紙を売買するオートグラフマン(直筆商)だ。物語はリ=ジンが、十二歳の息子アレックスと、黒人ユダヤ教徒のアダム、悪ガキのルービンファインの三人の少年を連れてプロレス観戦に出かけるシーンから始まる。その会場で出会うのがジョーゼフ。彼はすでに直筆サインの売買にまで手を染めている小さなオートグラフマンだった。さて、しかし、楽しかったはずのプロレス観戦は悲劇で幕を降ろす。リ=ジンが急死してしまうのだ。
それから十五年後、アレックスは直筆商になっている。亡き父が縁を結んでくれた三人の親友がいて、十年越しの恋人エスターもいるのだけれど、つまらない口論や不毛な浮気を繰り返している。〈頭のどこかで、自分は世に知られていない、もっとも素晴らしくもっとも有名な人間なのだと思っている〉彼は、いつまでも小者の直筆商である自分を持て余しているといった風なのだ。そんなアレックスが商売っけ抜きに愛する永遠のアイドルが往年のハリウッド女優、キティー・アレクサンダー。十三年間ファンレターを送り続けているのだが、一度も返事をもらったことがない。が、しかし、ある日ドラッグの長いトリップから覚醒すると、その手の中にはキティーのサインが! 本物なのか、それともトリップ中に自分で偽造したものなのか――。世界中の直筆商たちによるイベントに参加するため、ニューヨークに飛んだアレックスは、キティーに直接会って確かめることを心に誓う。
アレックスはこの物語の中でしばしば“国際的に通用するジェスチャー”を繰り返す。意見を聞かれた時や、恋人のエスターから本心を問われている時に、つい、かつて見た映画や読んだ本の中で覚えた仕草や言葉で応えてしまう。つまり、生身の自分を隠蔽している。何につけても懐疑的だから、親友のアダムのようにユダヤ教を信じることもできないし、エスターとの関係性も安定させることができない。そんなふらふらした自我を抱えるアレックスの肉体的・精神的迷走ぶりを描いて、この小説は読者に苦い共感を迫るのだ。セレブたちの〈有名性や驚くべき能力のお相伴にあずかる〉ために直筆のサインや手紙を欲しがるマニアとは、だって、テレビ番組やその時々の流行をコピーすることばかりに長けているわたしたちの似姿なのだから。
この小説は少年時代のエピソードを描いた「プロローグ」と、アレックスのホームグラウンドであるロンドン北部の町を舞台にした「第一の書」、ニューヨークを主なステージにした「第二の書」、「エピローグ」の四部からなっている。「第一の書」はユダヤ教の神秘主義カバラの根幹をになう“生命の樹”、その要素を示す十章からなり、「第二の書」は禅の修行者に与えられるという、普遍の原理を得るための過程をなぞる十章からなっている。その仕掛け、とりわけ小説中に紹介されているアダムが作った“生命の樹”の図が、物語と絶妙に呼応しあって見事だ。顕現・根源・栄光・永劫・美・決断力・神の愛・理解・叡知それぞれに、ジョン・レノンといった有名人のサインが当てはめられているのだけれど、その要素の頂点に君臨する王冠の場所だけが空白のままなのだ。そこにアレックスが誰の名前を置くことになるのか。頭はいいけど中身は空疎で、エゴイスティック気味だった男が最後の最後に見出す、自分にとって本当に大切なものとは何なのか。
ポップでコミカルで、それでいてナイーヴで、ジタバタしててドタバタしてて、それでいて台風の目の中にいるような本質的な静けさも備えているという、味わい豊かな語り口に乗せられて、あれよあれよという間に連れていかれてしまう最終章に用意された、胸にぐっとくるよな温かいエピソード。国際的に通用するジェスチャー(両手を上にあげる)で、降参とバンザイの意を表したくなる見事な着地点だ。
【この書評が収録されている書籍】
主人公は、中国人の父親リ=ジンとユダヤ人の母親との間に生まれたアレックス=リ・タンデム、二十七歳。職業は有名人のサインや手紙を売買するオートグラフマン(直筆商)だ。物語はリ=ジンが、十二歳の息子アレックスと、黒人ユダヤ教徒のアダム、悪ガキのルービンファインの三人の少年を連れてプロレス観戦に出かけるシーンから始まる。その会場で出会うのがジョーゼフ。彼はすでに直筆サインの売買にまで手を染めている小さなオートグラフマンだった。さて、しかし、楽しかったはずのプロレス観戦は悲劇で幕を降ろす。リ=ジンが急死してしまうのだ。
それから十五年後、アレックスは直筆商になっている。亡き父が縁を結んでくれた三人の親友がいて、十年越しの恋人エスターもいるのだけれど、つまらない口論や不毛な浮気を繰り返している。〈頭のどこかで、自分は世に知られていない、もっとも素晴らしくもっとも有名な人間なのだと思っている〉彼は、いつまでも小者の直筆商である自分を持て余しているといった風なのだ。そんなアレックスが商売っけ抜きに愛する永遠のアイドルが往年のハリウッド女優、キティー・アレクサンダー。十三年間ファンレターを送り続けているのだが、一度も返事をもらったことがない。が、しかし、ある日ドラッグの長いトリップから覚醒すると、その手の中にはキティーのサインが! 本物なのか、それともトリップ中に自分で偽造したものなのか――。世界中の直筆商たちによるイベントに参加するため、ニューヨークに飛んだアレックスは、キティーに直接会って確かめることを心に誓う。
アレックスはこの物語の中でしばしば“国際的に通用するジェスチャー”を繰り返す。意見を聞かれた時や、恋人のエスターから本心を問われている時に、つい、かつて見た映画や読んだ本の中で覚えた仕草や言葉で応えてしまう。つまり、生身の自分を隠蔽している。何につけても懐疑的だから、親友のアダムのようにユダヤ教を信じることもできないし、エスターとの関係性も安定させることができない。そんなふらふらした自我を抱えるアレックスの肉体的・精神的迷走ぶりを描いて、この小説は読者に苦い共感を迫るのだ。セレブたちの〈有名性や驚くべき能力のお相伴にあずかる〉ために直筆のサインや手紙を欲しがるマニアとは、だって、テレビ番組やその時々の流行をコピーすることばかりに長けているわたしたちの似姿なのだから。
この小説は少年時代のエピソードを描いた「プロローグ」と、アレックスのホームグラウンドであるロンドン北部の町を舞台にした「第一の書」、ニューヨークを主なステージにした「第二の書」、「エピローグ」の四部からなっている。「第一の書」はユダヤ教の神秘主義カバラの根幹をになう“生命の樹”、その要素を示す十章からなり、「第二の書」は禅の修行者に与えられるという、普遍の原理を得るための過程をなぞる十章からなっている。その仕掛け、とりわけ小説中に紹介されているアダムが作った“生命の樹”の図が、物語と絶妙に呼応しあって見事だ。顕現・根源・栄光・永劫・美・決断力・神の愛・理解・叡知それぞれに、ジョン・レノンといった有名人のサインが当てはめられているのだけれど、その要素の頂点に君臨する王冠の場所だけが空白のままなのだ。そこにアレックスが誰の名前を置くことになるのか。頭はいいけど中身は空疎で、エゴイスティック気味だった男が最後の最後に見出す、自分にとって本当に大切なものとは何なのか。
ポップでコミカルで、それでいてナイーヴで、ジタバタしててドタバタしてて、それでいて台風の目の中にいるような本質的な静けさも備えているという、味わい豊かな語り口に乗せられて、あれよあれよという間に連れていかれてしまう最終章に用意された、胸にぐっとくるよな温かいエピソード。国際的に通用するジェスチャー(両手を上にあげる)で、降参とバンザイの意を表したくなる見事な着地点だ。
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