書評

『古都』(国書刊行会)

  • 2022/11/01
古都 / 朱 天心
古都
  • 著者:朱 天心
  • 翻訳:清水 賢一郎
  • 出版社:国書刊行会
  • 装丁:単行本(324ページ)
  • 発売日:2000-06-01
  • ISBN-10:4336041334
  • ISBN-13:978-4336041333
内容紹介:
台北/京都。この双子の都市に刻まれた歴史と記憶。記憶をめぐる作品集。

私が私でいるために

台湾の女性作家、朱天心(チュー・ティエンシン)の傑作である。

朱天心は、作家にして侯孝賢(ホウ・シャオシエン)映画の脚本家である朱天文(チュー・ティエンウェン)の妹。朱天心の小説も、侯孝賢映画に似たテイストを持つ。

まえがきにも書いてあるが、台湾は日本の植民地時代、大戦後に中国大陸から逃れてきた蒋介石一族の独裁時代、それにここ十数年の民主化と「本土化」(台湾ナショナリズム)といった複雑な歴史とアイデンティティを持つ(より詳しく知りたい人には、丸川哲史氏の明解な新著『台湾、ポストコロニアルの身体』青土社刊がお勧め)。このため、政治が変わるたびに過去の記憶を抹殺することで新時代を築くという行為が繰り返されているのだが、それへの異議として表題作「古都」は書かれている。

はっきりしたストーリーはなく、冒頭から失われた街の記憶が語り連ねられる。過去を草木や建築の豊かな描写を交えて甦らせていくその語りは、台湾を知らない私でも自分がいまその日々にいるかのように錯覚してしまうほど官能的で魅惑的なのだが、それは感傷的なノスタルジーとは違う。それぞれの種類の木がどの時代に植えられたのか詳述されることで、永遠と思われた風景が実は近い過去に作られたものであることも意識されているからだ。

回想の内容は実は、合間に挿入された他の文学作品に影響されている。例えば、最も多く引用されているのが、この作品がタイトルを借りた川端康成の「古都」である。主人公の「あなた」は、川端作品の引用とともに京都へ移動し、徘徊し出す。そうして、いつまでも変わらない現代の京都が、かつて日本統治時代に京都を模して作られもしたがすっかり変わり果てた台北の街に重ねられていく。
日本人の私から見ると、京都は特殊な場所であって、永遠の古都であるかのように書くのはエキゾチスムではないかと疑いたくなるが、この小説はもっと複雑だ。朱天心はこの本収録の別の短篇で、京都人は見た目は優雅で如才ないけれど実は見せかけだけの嘘っぱち、と登場人物に喋らせている。回想中に何度も繰り返されるように、少女の「あなた」はここではない別の世界へ行ってしまいたいと思い、その対象として川端の京都が選ばれるのだ。川端の描く美しい京都が現実には存在しない場所であることを承知のうえで、朱天心は川端流には台北を描けないことを書き、空想に逃げるのではなく現実と向き合う。

「あなた」は京都から帰り、植民地時代の地図がついた日本語のガイドブックに従って、今度は台北の街をあたかもその地図の示す古都であるかのように巡り始め、記憶がまた引き寄せられていく。そこに台湾の歴史を語る古典作品の引用がからみ、地の文と混じり、個人的な記憶を語っているはずの「あなた」は、いつしか台湾自体の記憶をも語り始めている。しかし、いまの街からその記憶と結びつく現実を見つけることは、ついにできない。

朱天心は、「台湾人」という意識を作りだすために記憶を捏造することを拒む。公式な「台湾の歴史」を作ることで、それとは矛盾する個人の記憶が葬られるからだ。つまり、国のために個人であることを捨てさせられるからだ。ある人にとっては植民地の記憶である日本の建造物も、別の人にとっては政治とは無縁の遊び場の記憶だったりするのに、後者の記憶を葬り去ることで、前者だけを歴史として公式化する。だが、歴史とは、矛盾する各個人の記憶の束であるはず。「古都」は、のっぺりとした街並みに、それらの重層的な記憶を再移植しようという試みなのだ。

この他の短篇も、そのような記憶のあり方を扱っている。例えば「ハンガリー水」は、意志によっては思い出せない記憶が香りによって甦ることに気づき、最もかけがえのない記憶を体に甦らせたいがために、香りを求める話。ただ、濃厚でめくるめく「古都」とは違い、つい笑ってしまう可笑しさと、胸を締めつけられるような切ない余韻との絶妙な混ざり具合が魅力だ。いずれも現代台湾の都市生活を洗練された筆致で描きながら、政治が記憶を一本化する傾向を暗に批判している。

彼らは原風景を求めているのではない。ただ単に、自分が過去の積み重ねでできていることを引き受けたいだけなのだ。「私」の肌に刷り込まれた記憶こそが、私が私でいるための拠りどころであることを、この小説集は体験させてくれる。
古都 / 朱 天心
古都
  • 著者:朱 天心
  • 翻訳:清水 賢一郎
  • 出版社:国書刊行会
  • 装丁:単行本(324ページ)
  • 発売日:2000-06-01
  • ISBN-10:4336041334
  • ISBN-13:978-4336041333
内容紹介:
台北/京都。この双子の都市に刻まれた歴史と記憶。記憶をめぐる作品集。

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初出メディア

ハイファッション(終刊)

ハイファッション(終刊) 2000年10月号

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