書評
『武蔵野』(岩波書店)
僕自身のための「短篇小説コレクション」
僕には僕自身のための「短篇コレクション」というのがあって、スライド式本棚の後部あかずの棚に納められている。これはと思った短篇ばかりを、いわば心覚えの日記をつけるようにそこに隠す。時折、取り出して一人で朗読するのだが、これも日記を読み返すのに似たひそかな行為だ。ずっと門外不出であった。しかし、短篇というのはきまって「いい話」なのだから、他人(ひと)によんで聞かせたくなるというのが人情。最近その思いがしきりで、家族や友人たちに少しずつコレクションを公開しはじめた。もちろん、声に出してよむのだが、僕はけっこう朗読がうまいんだ。紀州なまりが消えないけれど。だいたい黙読法なんて近代になって、つまり紙の大量生産、印刷技術の向上、電灯の普及、一人部屋の確保といった近代産業文明によって後天的に身につけた技法なのだ。しかも完全な黙読なんてありえず、僕らは必ず内心で声にならない声を出してよんでいる。この声が文脈をつくり、文意が僕らの脳に届く。試してみて下さい。
先にこの欄で取り上げた小泉八雲の「お貞の話」やG・グリーンの「無邪気」も「短篇コレクション」のひとつ。朗読できないのは残念だが、今回は国木田独歩の「源叔父」。
大分・佐伯のはずれの港に源(げん)という渡船(おろし)を業とする若者がいた。浦々で彼の名を知らない者はいなかった。
そは心たしかに侠気(をとこぎ)ある若者なりしが故のみならず、別に深き故あり、げに君にも聞かしたきはその頃の源が声にぞありける。人々は彼が櫓(ろ)こぎつつ歌ふを聴かんとて撰びて彼が舟に乗りたり。されど言葉少なきは今も昔も変らず。
美しい島の娘百合と一緒になった源のうたう声はますます冴えまさった。男の子も生まれ、幸せな日々を送っていたが、百合は二度目の産が重くて死ぬ。源は幼い子を舟にのせて渡しの仕事をつづけるが、その子も十二歳の時、海で溺れ死ぬ。
源は相変わらず舟をこぐが、もううたわない。物言わず、笑わない。客は彼の舟に乗りながら、源が生きてこの世にいるのを忘れるほど稀薄な存在になってしまう。時に酒をのませてうたわせると、意味のわからない、調子はずれの声しか出ない。
何年かがたって、ある日、佐伯の町に八歳ばかりの子供を連れた女乞食が現れる。城下を物乞いして歩いていたが、いつのまにか母親は子供を残して姿を消す。生国が和歌山らしいということで「紀州」と呼ばれるその男の子は、橋の下や墓地をねぐらに佐伯の町に居つく。
ある雪の夜、源叔父はこの紀州を家につれてきて、我が子として育てようとする。彼は精気を取り戻す。歌がよみがえる。いずれ櫓こぎを教え、さらにうたうことも教えよう。もしこの紀州が、かつて自分がはじめて百合をのせて月夜をこぎ渡ったように、ひとりの乙女をのせて歌をうたい、こぎ渡るなら昔の自分と百合がそこに再現する。
しかし、紀州は源叔父の愛に応えない。いや応えることができない。白痴なのだ。紀州がいなくなると、源叔父は大粒の涙で顔を濡らして捜しまわる。やっと土堤の上をほろほろ歩いているところをみつけて、抱きしめようとするが、紀州は源叔父の顔をみて驚きもせず、道端を通りすぎてゆく人をみるような表情しか浮かべない。
源叔父に悲劇的な結末が待ちうけている。
「源叔父」は独歩二十六歳の時の作。処女作である。翌年、かの「武蔵野」が書かれた。独歩は三十七歳で死んでいる。早すぎる死だ。
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