後書き
『目的に合わない進化 上:進化と心身のミスマッチはなぜ起きる』(原書房)
ストレスが溜まる、肥満になりやすい、精神的に不健康、ドラッグにはまる、フェイクニュースにだまされてしまう……現代はとにかく、生きているだけで辛いことが多い。人類の誕生から長い年月を経て、今の人類はかつての人類よりも、優れた存在になっているはずではないのか? なぜこのようなことが起きるのか?
生物学の専門知識をもつ著者がその理由を探っていく新刊『目的に合わない進化』から、訳者あとがきをお届けする。
こうした進化の流れはよりすぐれた集団への変化、よりよい環境の構築へと進んだ発展のように思えます。進化という言葉から普通イメージするのは、そうしたよりよい状態へと変化することでしょう。
ところが進化には実は不都合な真実があったのです。肥満や不耐症を生み、腸内バクテリアの生態系を乱し、ストレスが不安症にむすびつき、ネットや薬物にのめり込み、フェイクニュースに引きよせられること、これらすべてに過去における進化という遺産が影響していると著者は考えます。
遥か過去の環境の中で遺伝子の変異を介して適応してきた進化的遺産が現代世界ではうまく機能しなくなり、有害にさえなっているというのです。こうした状況を著者は進化的遺産と現代的環境の間に生じる「不適合」として捉えます。
本書では各章で肥満や乳糖不耐症、腸内バクテリアの変化、ストレス、インターネットの影響、暴力性、嗜癖、フェイクニュースなどの現代社会の病理をテーマに取り上げ、それらに進化的遺産と環境との間の不適合が影響している可能性について、反論も含め様々な研究を紹介しながらその妥当性を追究します。
本書全体を通した論理の枠組みは単純です。遠い過去の環境に適応するように何千年もかけて進化してきたストレスや免疫系の遺伝的特徴が、現代の環境の急速な変化の中ではうまく機能せず、新たな進化もとうてい環境の変化速度には追いつけないために生じていると考えるのです。進化を良きものと漠然と捉えていた訳者には斬新な視点でした。
たとえば第8章ではアルコールやドラッグへの嗜癖や依存の問題が扱われています。
アルコールデヒドロゲナーゼ(ADH)という酵素群のエタノール分解能力が突然増大したのは、現世人類が登場する遙か以前の約1000万年前のことでした。この変異によって森の中で熟れた果実から漂う匂いをかぎつけエタノールを含む果実を食糧とすることができるようになったのです。果実に含まれるエタノールはごくわずかな量だったのですが、生存や繁殖に有利に作用しました。
ところが現代世界ではアルコール濃度の高い飲料が容易に手に入る環境となり、こうした進化的遺産は健康被害というコストの方がメリットを上まわるようになってしまったのです。
そんな状況を受け止めつつ、著者は進化的遺産と現代世界との不適合という視点が骨格となり、将来さらなる研究が積み重ねられ、現代世界の病巣の理解と将来への展望が開けると考えています。
人類史上最大の不適合を生み出している地球環境の劣化を緩和するにも、人類が受け継いできた進化的遺産による現在の人間の弱点を把握することが重要で、現代のわたしたちが未来のわたしたち自身を見つめる視点の転換にこそ一筋の希望の光があると著者は説きます(第10章)。
人類学、遺伝学、考古学、生物学、生化学、社会学など多くの分野にまたがる最新の知識を動員し、ジョークを交えながら進化と現代の病巣の関係を読み解く著者の筆致に導かれ、読者もおそらく過去の進化を担いつつ未来の進化へとつなぐ自分自身の存在に気付かされることになるのではないでしょうか。良質のポップ・サイエンスと言える1冊です。
著者のアダム・ハートはグロスターシャー大学教授で社会性昆虫を専門とする昆虫学者です。大学では動物行動学、行動生態学、科学コミュニケーション論などを講義し多数の論文を発表するかたわら、BBCの科学ドキュメンタリー番組を担当するなど、生物学を中心として科学知識の普及に努めています。
本書はそうした著者の専門知識とプレゼンターとしての力を存分に生かし、進化と現代世界の関係について斬新な視点から切り込みます。
[書き手]柴田譲治(翻訳家)
生物学の専門知識をもつ著者がその理由を探っていく新刊『目的に合わない進化』から、訳者あとがきをお届けする。
進化の不都合な真実
人類の遙かな過去から進化の流れを眺めてみれば、ゴリラやチンパンジーと袂を分かちホモ・エレクトスからホモ・サピエンスへ、狩猟採集から農耕へ、産業革命を経てさらに高速化した輸送や情報化の進んだ現代世界を構築してきました。こうした進化の流れはよりすぐれた集団への変化、よりよい環境の構築へと進んだ発展のように思えます。進化という言葉から普通イメージするのは、そうしたよりよい状態へと変化することでしょう。
ところが進化には実は不都合な真実があったのです。肥満や不耐症を生み、腸内バクテリアの生態系を乱し、ストレスが不安症にむすびつき、ネットや薬物にのめり込み、フェイクニュースに引きよせられること、これらすべてに過去における進化という遺産が影響していると著者は考えます。
遥か過去の環境の中で遺伝子の変異を介して適応してきた進化的遺産が現代世界ではうまく機能しなくなり、有害にさえなっているというのです。こうした状況を著者は進化的遺産と現代的環境の間に生じる「不適合」として捉えます。
本書では各章で肥満や乳糖不耐症、腸内バクテリアの変化、ストレス、インターネットの影響、暴力性、嗜癖、フェイクニュースなどの現代社会の病理をテーマに取り上げ、それらに進化的遺産と環境との間の不適合が影響している可能性について、反論も含め様々な研究を紹介しながらその妥当性を追究します。
本書全体を通した論理の枠組みは単純です。遠い過去の環境に適応するように何千年もかけて進化してきたストレスや免疫系の遺伝的特徴が、現代の環境の急速な変化の中ではうまく機能せず、新たな進化もとうてい環境の変化速度には追いつけないために生じていると考えるのです。進化を良きものと漠然と捉えていた訳者には斬新な視点でした。
たとえば第8章ではアルコールやドラッグへの嗜癖や依存の問題が扱われています。
アルコールデヒドロゲナーゼ(ADH)という酵素群のエタノール分解能力が突然増大したのは、現世人類が登場する遙か以前の約1000万年前のことでした。この変異によって森の中で熟れた果実から漂う匂いをかぎつけエタノールを含む果実を食糧とすることができるようになったのです。果実に含まれるエタノールはごくわずかな量だったのですが、生存や繁殖に有利に作用しました。
ところが現代世界ではアルコール濃度の高い飲料が容易に手に入る環境となり、こうした進化的遺産は健康被害というコストの方がメリットを上まわるようになってしまったのです。
現代世界の病巣の理解へ
もちろんこうした著者の視点を裏付ける仮説や証拠について、必ずしも確定的な結論が出されているわけではありません。本文中でも指摘されているように様々な解釈、反論もあり、相反する研究結果がひしめいてもいます。ですから本書での議論の展開もたびたび寄り道があり、行ってみたら行き止まりなのでまたもとの議論に戻るといった場面も出てきます。そんな状況を受け止めつつ、著者は進化的遺産と現代世界との不適合という視点が骨格となり、将来さらなる研究が積み重ねられ、現代世界の病巣の理解と将来への展望が開けると考えています。
人類史上最大の不適合を生み出している地球環境の劣化を緩和するにも、人類が受け継いできた進化的遺産による現在の人間の弱点を把握することが重要で、現代のわたしたちが未来のわたしたち自身を見つめる視点の転換にこそ一筋の希望の光があると著者は説きます(第10章)。
人類学、遺伝学、考古学、生物学、生化学、社会学など多くの分野にまたがる最新の知識を動員し、ジョークを交えながら進化と現代の病巣の関係を読み解く著者の筆致に導かれ、読者もおそらく過去の進化を担いつつ未来の進化へとつなぐ自分自身の存在に気付かされることになるのではないでしょうか。良質のポップ・サイエンスと言える1冊です。
進化と現代世界の関係について斬新な視点から切り込む
著者のアダム・ハートはグロスターシャー大学教授で社会性昆虫を専門とする昆虫学者です。大学では動物行動学、行動生態学、科学コミュニケーション論などを講義し多数の論文を発表するかたわら、BBCの科学ドキュメンタリー番組を担当するなど、生物学を中心として科学知識の普及に努めています。
本書はそうした著者の専門知識とプレゼンターとしての力を存分に生かし、進化と現代世界の関係について斬新な視点から切り込みます。
[書き手]柴田譲治(翻訳家)
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