書評

『昔のミセス』(幻戯書房)

  • 2023/01/20
昔のミセス / 金井 美恵子
昔のミセス
  • 著者:金井 美恵子
  • 出版社:幻戯書房
  • 装丁:単行本(229ページ)
  • 発売日:2008-08-01
  • ISBN-10:4901998358
  • ISBN-13:978-4901998352
内容紹介:
70年前後の雑誌「ミセス」を読み返し、今とのズレをめぐって、ビターな甘さ全開のエッセイ集。溢れるユーモア、こぼれる愛、さえわたる舌鋒。

官能的なまでに五感の記憶を揺さぶる

なんていいタイトルだろう。小さい声で、含み笑いしながら、こっそり発音したい心愉(たの)しいタイトル。

これは『ミセス』という雑誌のバックナンバーを題材にしたエッセイ集で、着るもの、食べるもの、家具、小物、そのときどきの女優や男優といったなじみ深い物や事、大抵の人にとって身近な物や事をめぐって書かれた本。あいだあいだに『ミセス』の当該ページの写真が載っているので、ああこれ、これ、と呟(つぶや)いたり、懐かしがったりもできる。

美しい無駄をふんだんに盛り込んだ文章は、ごくごく飲みたいくらいおもしろい。無駄という言い方は誤解を生むかもしれないのでつけ加えると、ふっくらしたもの、おかしみのあるもの、色や匂(にお)いや手ざわりに満ちたもの、は、世間では大抵無駄とされている。そんなふうに言えば婦人雑誌そのものが無駄なのだし、いい文章というのも実にまったく無駄なのだ。そういう意味の、無駄。

この本を読むと、いろいろなことを思いだす。子供のころに住んでいた家の階段や、お向いの家の階段(なぜ階段なのかはわからない)、ミシンの音、母に縫ってもらったワンピースの柄、飼っていたシャム猫のノラ、電気ポットに入れられた氷水、ピアノの上にかけてあった白いレース、その部屋の夕方の仄暗(ほのぐら)さ、お客様用の紅茶茶碗(ぢゃわん)――。それらはもちろん個人的であると同時に大変婦人雑誌的、というか『ミセス』的なあれこれなのだけれど、でも『ミセス』のバックナンバーを揃(そろ)えて眺めたところで、喚起されはしない記憶だ。金井美恵子という人の、十全に豊かでこなれた日本語が、帯の言葉を借りるなら「繊細かつ大胆」に喚起する記憶。

たとえば、「トムとゼリー」という鮮烈なエッセイがある。そのなかで著者の友人の妹(当時小学生)は、「黄色と白の格子のスモッキング刺繍(ししゅう)をした三角巾(きん)とエプロンを着けて、メロン、イチゴ、レモンのどれにいたしますか?と、自分の作ったゼライスを大変気取った様子でお給仕してくれる」と回想されるのだが、その子は「赤ン坊の頃(ころ)から魚の煮凝(にこご)りが大好きだった」のであり、「アルミニュウムのゼリー型から外してお皿に移す時、ツルツルして弾力のあるゼリーがつるりとお皿の上をすべって落ちてしまうか形が崩れてしまうのではないかと、極度に緊張する」。ゼリーを作るとき、冷蔵庫に入れずに氷水を張ったバットに型を並べて冷し固めるのは、「ゼリーが徐々にトロリとしてきて固まって行く様子を、じっと見ているのが好きだから」なのだ。

ほとんど官能的なまでに五感全部の記憶を揺さぶるエッセイなのだけれど、それは自分にも似た経験がある、ということよりも、ああ、この子を知っている、という一種錯綜(さくそう)した記憶による懐かしさであって、そのとき私が「この子」に自分を重ねているのか自分の妹を重ねているのか、友人や友人の妹を重ねているのか、判然としない。小説の登場人物にたまに感じる既視感のような意味で、ここにでてくる著者の友人の妹その人を、知っていると感じるのかもしれない。それらは混然一体となり、ああ、あのゼリーのけばけばしかった色、つるんとしたつめたさ、と、それを作ったり食べたりした部屋の様子まで思いだす気がしてめまいさえ感じるのだが、ではこのエッセイの元となった『ミセス』の写真ページ(「夏の味覚(3)ゼリー」というタイトルと共に、赤いゼリーが二つ、緑のゼリーが二つ、白いババロアが二つ、果物の入った大きなケーキ風ババロアが一つ、テーブルにのっている写真)を見て、私がめまいをおこすかといえば、おこしたりしない。

またべつのエッセイでは、老婦人に部屋着を手作りして贈ってはどうか、と読者に提案する『ミセス』のページがとり上げられていて、その白黒写真のなかの老婦人が女優の東山千栄子であることから、著者は女優というものの不思議について書く。女優とモデルの違い、というこのエッセイの骨子は骨子として、「フリル飾りが襟と袖口についたガウン風の淡いブルーとグレーのミックスの英国製アンゴラジャージーのワンピースを着て、居間の窓辺の古風な布地が張られたソファーに、クッション(手織りのざっくりした茶色系のウールだろうか?)を重ねて、ゆったりと凭(もた)れかかり、膝の上に伸したおおらかな手の中に小さな白い安心しきっているように見える仔猫を抱いたモノクロームの写真の御所人形がおばあさんになったような老婦人」という描写の、何ていう濃(こま)やかさ。ガウンの色は雑誌の本文に書いてあるのでいいとしても、一枚の白黒写真から、これほど立体的な描写ができる破天荒な文章力には感嘆する。

雑誌の記事や写真、そこから読みとれる風俗や時代、をめぐって書かれたこの本は、けれどもちろん文章について、言葉について、その喚起力と吸引力、風味とおもしろさ、また果てしなさについて、書かれた本でもあるのだ。
昔のミセス / 金井 美恵子
昔のミセス
  • 著者:金井 美恵子
  • 出版社:幻戯書房
  • 装丁:単行本(229ページ)
  • 発売日:2008-08-01
  • ISBN-10:4901998358
  • ISBN-13:978-4901998352
内容紹介:
70年前後の雑誌「ミセス」を読み返し、今とのズレをめぐって、ビターな甘さ全開のエッセイ集。溢れるユーモア、こぼれる愛、さえわたる舌鋒。

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2008年8月24日

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