書評
『回避と拘泥』(立風書房)
何が日本人を虜にしたのか
日本について、あるいは天皇について語るとき、日本人はあまりにも自家撞着(どうちゃく)になってしまいやすい。距離の取り方がむずかしい。著者は一九七〇年代の韓国で日本語と日本文学を教え、また一九八〇年代のニューヨークで日本映画について講義する機会を得た。韓国時代、あるミーティングで在日韓国人の青年が著者を日本人と気づかず「先生の日本語はやはり机の上で勉強した日本語ですな」と言われる。またさまざまな人種が溢(あふ)れるニューヨークの大学のパーティで皇太子夫妻(現、天皇・皇后)を迎えたが、そのとき美智子妃に「とても日本語がお上手ですね」と声をかけられた。二つの些細(ささい)なエピソードから「日本語を語ることと日本人としての自己同一性との間に横たわっている、微妙な乖離(かいり)の感覚」について考え込まされた。
イデオロギーに頼らず“世間”や“世界”を把握する方法をほんとうに手に入れたのだろうか。実際に一芸に通じた名人や達人たちは、ごく日常的にそれをこなしている。しかし、いったん日本とかアジアという概念を行使すると、どうしても不明に至るのだ。たとえばかつて「地上の天国」としてメディアに立ち現れた北朝鮮は、いまアームチェアに座りながら自在に嘲笑(ちょうしょう)することのできる唯一の場所として放置されたままである。これではなにも自分に振りかかってこない。著者は北朝鮮への短い旅のなかで、金日成の生誕の物語構造に神話的想像力が働いている事実を感じる。万景台の藁(わら)小屋での誕生物語は、イエスの誕生をはじめとする英雄神話の構造に類似しているし、生家が「賤業(せんぎょう)に従事していた」事実には貴種流離譚(りゅうりたん)の影を見出すこともできる。抗日闘争は悪と暗黒の支配に対しての新世界創成の苦しみの物語なのである。そして完成した世界で、時間は消滅するのだ。街中のいたるところに貼(は)られた肖像写真があの「御真影」を思い出させるとしたら、日本人が虜(とりこ)となった神話学的次元とはなにか、考えないわけにはいかない。
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