後書き

『愛国とボイコット―近代中国の地域的文脈と対日関係―』(名古屋大学出版会)

  • 2021/12/22
愛国とボイコット―近代中国の地域的文脈と対日関係― / 吉澤 誠一郎
愛国とボイコット―近代中国の地域的文脈と対日関係―
  • 著者:吉澤 誠一郎
  • 出版社:名古屋大学出版会
  • 装丁:単行本(312ページ)
  • 発売日:2021-12-03
  • ISBN-10:4815810486
  • ISBN-13:978-4815810481
内容紹介:
中国ナショナリズムの実像――。時に暴力をともなう激しい対日ボイコットはなぜ繰り返されたのか。たんなる外交懸案の解決でも自国工業の振興でもない、それぞれの運動が生じた異なる地域事情と利害・思想を詳らかにするとともに、それらが愛国主義へとつながっていくメカニズムを捉えた力作。
そもそもは19世紀後半アイルランドの農民運動が語源とされる「ボイコット」。20世紀前半の中国でも、1919年の五四運動がよく知られているように、日本製品の排斥など激しい対日ボイコットが繰り返された。

「ナショナリズムの高まり」として取り上げられることの多いボイコット運動だが、一方でその背景には、中国人だから/日本人だからと単純化できないさまざまな利害関係、関心、動機があったのだという。当時の対日ボイコット運動を研究することで、どのような実像がみえてくるのだろうか。11月末に刊行された近代中国史研究者・吉澤誠一郎氏の新刊『愛国とボイコット』から、著者あとがきを一部特別公開する。


ナショナリズムだけではない 近代中国のボイコットからみえるものとは

日本で日中関係史について研究すること

本書は、日中関係史の領域に分類されると言ってよいだろう。私のように、日本で教育を受けた中国近代史研究者が、日中関係史について関心を持ち、ときどきそれについて研究を行なうことは当然と思われるかもしれない。確かに、多くの先学はそのような研究姿勢をとってきた。しかし、私自身は20歳台の頃は、日中関係史について研究することを意識的・無意識的に避けてきたと、今になって思う。

一つには、中国近代史研究において日本との関係の意味を過大視するのは適切でないという考えがあったからである。むろん、日中関係史の重要性を否定するつもりはなかったが、イギリスやアメリカをはじめとする欧米諸国との関係が中国近代史においてより肝心であって、まずそちらを研究すべきだと考えていた。また、私は学部生の頃、国史学から東洋史学に転じたということもあって、ことさら日中関係史という分野から離れようとしていたのかもしれない。

もう一つは、日中関係史は特に難しい研究分野であると感じていたという点がある。中国近代史のなかで日本が関係する事柄について客観的に分析することは、日本人研究者にとって、そもそも容易でないという見方である。中国語には「当局者迷、旁観者清」という成語がある。もともと囲碁で対局者当人よりもそれを見物している者のほうが差し手のよしあしを的確に判断できるという意味らしく、日本語で言う「岡目八目」とほとんど同じことになる。同様の指摘を中ソ関係史の石井明氏も行なっており、「岡目八目」は一定の真理を含んでいると言えそうである(石井明『中ソ関係史の研究――1945―1950』東京大学出版会、1990年、まえがき)。


近代中国の対外ボイコット

そうしたなか、本書につながる研究に取り組むことになったきっかけは、シンガポール国立大学の黄賢強(Wong Sin Kiong)先生から、近代中国の対外ボイコットについて学会でセッションを組むので参加してほしい、ついては1908年の辰丸事件[※]について論文を書いてほしいと依頼されたことであった。その学会は2003年8月にシンガポールで開催された。それ以前には、確かに1905年の反アメリカ運動については論文を書いたことがあったものの、辰丸事件について研究するのは少し気が重かった記憶がある。その理由は、この事件について論じるならば、日中関係史に相当する領域に入り込むことになるからであった。

[※(第二)辰丸事件:1908年、澳門(マカオ)近海において、日本の商船「第二辰丸」が武器密輸の疑いで拿捕された。日本は強硬な謝罪・賠償要求を出したため、中国で日本商品の不買運動などを惹き起こした。中国近代史上はじめての反日ボイコットとされる。]

それでも、近代中国における対外ボイコットを研究する他の研究者と交流できる貴重な機会だという気持ちから報告を引き受け、東京都港区にある外務省外交史料館に通って、辰丸事件に関する史料の閲覧を始めた。そのとき私が心に抱いていた疑問は、なぜ辰丸の拿捕というような一見些細な事件が、これほど多くの史料を残すような問題となったのかということであった。自分なりの探究を経た後、辰丸の拿捕の背景には当時の広東社会が直面していた重要な政治的課題があり、それに注目しなければならないという結論に至った。そして、日中関係史は、単に日中関係の視点からだけ論じても十分な理解に達しないように思われた。

このような見通しを得た後、他の事件についても、私なりの新しい視点から考察してみたいという関心が生じてきた。しかも、多くの日中関係史の説明では、排日運動について極めて安易に「ナショナリズムが勃興した」などと述べてしまい、運動の展開についてまともな分析をせずに、すぐ日本政府の対応に話を移していく傾向が強いので、そのような分析手法に対して異議申し立てをする必要を感じるようにもなった。こうして研究を進めるうちに、本書の構想が少しずつ形をなしてきた。


愛国運動の「同床異夢」

本書は、中国ナショナリズムについての研究であることは間違いないが、多くの部分で、人々が多様な動機から運動に加わったことを強調している。私の理解によれば、愛国を呼びかける言説は、多様な動機による行動を一つにまとめあげる広い通用性と、反論を許さない強い正当性を有していた。愛国運動は、参加者の同床異夢にこそ、その歴史的意味があった。本書は人々の動機の多様性(「異夢」)の側面を指摘しているが、人々がそのような立場の相違にもかかわらず共同して行動することもあったこと(「同床」)の重要性もまた念のため強調しておきたい。

本書が扱った時代には、中央政府の主導で愛国心を養うというような動きは中国では弱かったが、繰り返される対外運動こそが、愛国の理念を中国社会に広めていったと考えられる。むろん、往々にして、愛国の言説はそれを受け入れない同国民の存在を嘆く傾向がある。つまり、国民の一致団結というのは未完の目標にとどまるのが常態であろう。本書で論じた運動は、その未完の目標をめざしたものだったのである。

当時の中国語史料には、愛国運動が正義を実現するものであることを強く訴える言葉が多くみられる。これに対し、損害・被害を受けた日本人は、それが不当な攻撃であるとみて強い不満を抱いていた。本書が引用した史料には、このような事の是非をめぐる感情的な表現があちこちにみられる。とはいえ、本書の立場としては、誰の主張が正しかったのかということを判断しようとする意図は全くない。むしろ強調したかったのは、中国人だから、あるいは日本人だからという形で、国別に利害関係を必ずしも整理できるものではないということであった。中国人のなかにも日本人のなかにも異なる関心や態度で運動に接する者がいた点に注目することが肝要であろう。


学問に「国籍」はあるのか

さて、最初に述べたような日中関係史研究への懐疑と躊躇の気持ちは、まだ私の心にとどまっている。しかし、50歳を超えて、かつての自分の考え方は若気の至りでやや潔癖にすぎたのではないか、過去に生きた人々の理想と苦渋について泥臭く論じてみることもまた大切ではないかと思うようになった。

それは、学問に「国籍」があるのか否かという問いについて、自分なりに一定の答えが得られたからでもある。日本人の行なう歴史研究には、日本人であることに由来する立場性が必ず伴うのだろうか。学問は、当然、あらゆる立場を越えた真理を追究するものであり、歴史学は過去の人類すべてに対して理解を深めることを目的としている。しかし、日本社会を基盤として生活してきた研究者が、全くそのような背景と無関係に歴史研究ができると考えるのは、無自覚にすぎるであろう。私が得た回答とは、至極簡単なものである。そのような特殊な立場性と学問の普遍性とは、矛盾しながら併存し続けるほかない。換言すれば、学問に「国籍」が有るという答えも、無いという答えも、性急に白黒をつけようとする点でどちらも間違いと言えるのである。

歴史学には様々な社会的役割があるが、そのうちの一つは、単純化された認識枠組みに抵抗し、事態の複雑な実相に目を向けていく重要性を訴えることであろう。本書からそのような志が伝わることを念願している。

[書き手]吉澤誠一郎(1968年群馬県生まれ。現在、東京大学大学院人文社会系研究科教授)
愛国とボイコット―近代中国の地域的文脈と対日関係― / 吉澤 誠一郎
愛国とボイコット―近代中国の地域的文脈と対日関係―
  • 著者:吉澤 誠一郎
  • 出版社:名古屋大学出版会
  • 装丁:単行本(312ページ)
  • 発売日:2021-12-03
  • ISBN-10:4815810486
  • ISBN-13:978-4815810481
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