自著解説

『統計力学の形成』(名古屋大学出版会)

  • 2022/03/01
統計力学の形成 / 稲葉 肇
統計力学の形成
  • 著者:稲葉 肇
  • 出版社:名古屋大学出版会
  • 装丁:単行本(378ページ)
  • 発売日:2021-09-24
  • ISBN-10:4815810362
  • ISBN-13:978-4815810368
内容紹介:
アナロジーから基礎づけへ――.時間的に可逆であるミクロな多数の要素と,不可逆なマクロとを関係づける,統計力学.マクスウェルやボルツマンによる気体運動論との差異を踏まえつつ,その歴史と意義を丹念に追跡.アンサンブル概念はいかに誕生・発展し,フォン・ノイマンによる量子統計に到ったか?
現代物理学の主要な分野の一つ,統計力学.その知られざる歴史と意義を探究した科学史の著作『統計力学の形成』が,刊行以来,物理学界隈でも話題となっている.統計力学の基本的な考え方はどのように形づくられてきたのか.このたびの重版出来に際し,著者・稲葉肇氏に自著を紹介していただいた――

ミクロな世界とマクロな世界を,統計的方法によってつなげる物理学
――統計力学の思想と歴史をひもとく

今日,「統計」とは当たり前のように使われる言葉である.統計法が定められ,政府による統計操作が大きな問題となるのは,統計というものがこの社会全体の様子を把握して政策立案の材料を提供するのに不可欠な道具だからだろう.そして統計的方法が使われるのは社会についてだけではない.それは自然を理解するためにも重要な役割を果たしている.たとえば物質を原子の集まりとして説明する物理学,すなわち統計力学である.

統計力学の思想

人間が集まれば社会ができる.2020年10月の国勢調査によれば,日本の人口は1億 2614 万6千人である.だから日本社会のことは1億 2614 万6千人の人々の遍歴を調べ上げれば完全に理解できる——原理的には.もちろん実際には,われわれは日本社会のことを理解しようとするときにそんな方法は取らないし,そもそも個々人の人生をつぶさに知りたいわけでもない.知りたいのは年齢構成や地域ごとの人口分布といった社会全体の様子であって,そのために国勢調査は統計的方法を用いる.

原子が集まれば物質ができる.アヴォガドロの法則によれば,22.4リットル(1モル)の気体にはおよそ6000垓個(6×10^{23}個)の分子が含まれている.だから気体のことは6000垓個の分子の振舞いを調べ上げれば完全に理解できる——原理的には.もちろん実際には,われわれは気体のことを理解しようとするときにそんな方法は取らないし,そもそも個々の分子の詳細に興味があるわけでもない.知りたいのは温度や圧力といった気体全体の様子であって,そのために統計力学は統計的方法を用いる.

統計力学は,原子サイズのミクロな世界と,物質規模のマクロな世界を,統計的方法によってつなげる物理学である.個々の原子たちの詳細な様子には踏み込まず,それらの集団としての性質を調べることで物質がもつ性質を説明するのである.そのためには「人口の統計」ならぬ「原子の統計」を考える必要がある.そこで使われるのがアンサンブルという計算技法である.

アンサンブルという計算技法

同じ平均年齢の社会であっても,ある社会では全年齢層にまんべんなく人口が分布しており,別の社会ではその平均年齢付近の人数だけが突出しており,また別の社会では幼年層と老年層の人数が多いために,結果としてどの社会も同じ平均年齢になっているのかもしれない.同様に,同じ摂氏20度の温度をもつ気体というマクロな状態には,きわめて多様なミクロな分子的状態が対応しうる.そして,そうしたミクロな状態のうちのどれが実際のものなのかを,温度というマクロな性質だけから決めることはできない.もしこれを決める必要があったとすれば,それは「原子の統計」にとって困難きわまる事態であるだろう.

しかし統計力学の知見によれば,気体全体にかかわるマクロな状態と分子的なミクロな状態のあいだに,一対一の対応関係を打ち立てる必要はない.むしろ,ひとつのマクロな状態は,それに対応するきわめて多数のミクロな状態のうちの,どれかひとつがランダムに実現されたものだと考える(等確率の原理)ことで,物質の示すさまざまな性質を分子的な観点から計算することができるのである.

アンサンブルとは,このような,ひとつのマクロな状態に対応するミクロな状態の集まりのことである.この見方からすれば,マクロな物質の状態は対応するアンサンブルの中からひとつランダムに選んだものであり,またマクロな物質の性質は,同じく対応するアンサンブルにおける平均として計算されることになる.

統計力学の歴史への招待

前置きが長くなった.本書は,このアンサンブル概念をもとにした統計力学の歴史を描く試みである.それはひとつの計算技法の歴史であると言えるが,これを単なる計算テクニックの問題とあなどってはならない.

たとえば,アンサンブルを使えば,たしかに物質のもつさまざまな性質を計算できる.しかし,いったいそれはどうしてうまくいくのか.これを説明するにはやはり,結局は原子たちの振舞いに関する力学法則に訴えなければならないのだろうか(エルゴード仮説).それとも統計力学の思想にのっとり,原子たちの運動には触れず,物質が多数の原子からなるという事実に訴えるべきなのだろうか.アンサンブルの使用を正当化するには複数の戦略があった.そしてこのことは,どのように物理学を行うべきなのかという方法論の相違を反映していたのだ.

また,ミクロな原子の世界とマクロな物質の世界をつなげるのが統計力学であるが,物理学的には,それぞれの世界を支配する法則はまるで異なる.ミクロな世界を支配する力学ないし量子力学では,ボールの運動のような現象の時間変化を考えるとき,その時間の進む向きを逆転させた変化もつねに可能である(時間反転対称性).これに対し,マクロな世界を支配する熱力学では,エントロピー増大の法則に代表されるように,物質の状態変化が一方向にしか進まないこと(不可逆性)を認める.このような異質な理論をどう橋渡しするのかという問題も,統計力学の歴史の興味深い論点である.

今まで断りなく用いてきた「ミクロとマクロ」という対立項にしても,もともと別の分野で使われていたのが,徐々に統計力学の文脈に持ち込まれるようになったものである.これは単なる言葉の問題として片付けられることではない.適切な言葉遣いが,統計力学の思想を明瞭にするのである.経済学に関心がある方であれば,「ミクロとマクロ」という対立項について比較してみるのも面白いことだろう.

ミクロとマクロをつなぐ統計力学はきわめて一般性の高い理論である.そのことは,古典物理学の時代に定式化されたアンサンブルという概念が,量子論の時代に到ってもなお基本的な計算技法として残り続けたことに象徴されている.そして統計力学は,実は原子の集団としての物質を対象とするにとどまらず,近年は人工知能(AI)への応用もさかんである.しかし,その歴史が気体などの物質の探究から始まることは疑いない.統計力学のもつ高い一般性がどのように認識されるに到ったかを追跡することは,統計的方法に対するわれわれの理解を,歴史という側面から深めてくれるだろう.それは,政府統計であれ人工知能であれ,「統計」が不可欠な時代を生きるにあたっての糧となるはずである.

[書き手]稲葉肇(明治大学)
統計力学の形成 / 稲葉 肇
統計力学の形成
  • 著者:稲葉 肇
  • 出版社:名古屋大学出版会
  • 装丁:単行本(378ページ)
  • 発売日:2021-09-24
  • ISBN-10:4815810362
  • ISBN-13:978-4815810368
内容紹介:
アナロジーから基礎づけへ――.時間的に可逆であるミクロな多数の要素と,不可逆なマクロとを関係づける,統計力学.マクスウェルやボルツマンによる気体運動論との差異を踏まえつつ,その歴史と意義を丹念に追跡.アンサンブル概念はいかに誕生・発展し,フォン・ノイマンによる量子統計に到ったか?

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