後書き

『経済学のどこが問題なのか』(名古屋大学出版会)

  • 2022/06/13
経済学のどこが問題なのか / ロバート・スキデルスキー
経済学のどこが問題なのか
  • 著者:ロバート・スキデルスキー
  • 翻訳:鍋島 直樹
  • 出版社:名古屋大学出版会
  • 装丁:単行本(288ページ)
  • 発売日:2022-06-15
  • ISBN-10:4815810885
  • ISBN-13:978-4815810887
内容紹介:
モヤモヤしている人のために——。スタンダードな経済学の考え方を再検討し、今後に向けての処方箋を提示する話題作、待望の邦訳!
今年文庫化された『じゅうぶん豊かで、貧しい社会』など、日本でも多くの著作が翻訳されているイギリスの歴史・経済学者、ロバート・スキデルスキー氏の最新刊『経済学のどこが問題なのか』日本語版がついに刊行となった。今回、訳者あとがきを特別に公開する。海外でも大きな話題となったスキデルスキー氏の“経済学批判”から、日本の読者は何を学ぶことができるだろうか。

経済学を学ぶ学生、一般読者、および経済学者に向けて、経済学のあり方を根本から問い直す問題提起の書

多くの経済学者とは異なる独自の特徴

著者のロバート・スキデルスキー氏は1939年に満洲で生まれ、オックスフォード大学で歴史学を学んだのち、大学院ではイギリス政治史を専攻して政治学の博士号を取得している。ジョンズ・ホプキンズ大学、ウォリック大学などで教鞭をとり、現在はウォリック大学政治経済学名誉教授として研究を進めている。歴史学と経済学を専門とし、とくにケインズ研究の第一人者として広く知られている。著作の多くが邦訳刊行されており、主なものとして、『ジョン・メイナード・ケインズ』(東洋経済新報社、1987-92年)のほか、『ケインズ』(岩波書店、2001年)、『共産主義後の世界』(柏書房、2003年)、『なにがケインズを復活させたのか?』(日本経済新聞出版社、2010年)、『じゅうぶん豊かで、貧しい社会』(共著、筑摩書房、2014年)などがある。

スキデルスキー氏の父親の家族は、1917年のロシア革命のさいに極東ロシアから旧満洲のハルビンに移り住み、実業家であった父はその地で事業を継続した。しかし、1929年のウォール街における株式市場の暴落によって一家の財産の多くが失われた。そして1949年に一家が革命後の中国から香港に逃れるさいに、残っていた財産も失われた。おそらく、このような家族的背景が氏の思想形成に少なからぬ影響を及ぼしているのであろう。本書においてスキデルスキー氏は、自由放任の資本主義に対して終始一貫して厳しい非難を浴びせる一方で、旧ソ連・東欧型の社会主義体制に対しても時に辛辣なことばで批判を加えている。この点において氏は、自由放任資本主義と国家社会主義のあいだの中道の路線を追求したケインズと政治的立場を共有しているものと見なすことができる。


現代の主流派経済学に対する全面的な批判の書

さて本書は、現代の主流派経済学に対する全面的な批判の書である。とはいえ、主流派経済学に取って代わる新しい理論モデルを展開するものではない。本書の目的は、経済学の研究が行なわれている方法それ自体を問い直すことによって、これからの経済学が進むべき方向を探ることにある。本書のおもな主張は、次の二点に要約することができるだろう。第一に、人工的につくられた同じ条件のもとで実験を繰り返すことのできる自然科学とは異なり、経済学では、その研究対象である経済の構造が時とともに変化するため、数学的なモデルを用いて厳密な演繹的推論を行なうことには限界がある。それゆえ経済学のモデルは、現実的な仮定から出発しなくてはならない。第二に、人間は集団のなかで生活する生き物であり、諸個人の価値観や選好は社会のなかで自らが置かれた位置によって形づくられるのであるから、社会現象を個人の行動の単なる集計と見なすことはできず、個人と全体のあいだの双方向的な因果関係について考察する必要がある。

著者は、これらの見解について様々な観点から検討を加えることを通じて、今日の主流派経済学がはらむ問題点を明らかにしている。専門の経済学研究者を含めて、多くの読者は、本書から大きな知的刺激を受けることができるに違いない。もっぱら数学的な理論モデルにもとづく新古典派の方法によって経済学の視野が狭隘化しており、それゆえに、現実の経済を総体的に理解することが難しくなっていること、そして様々な経済問題を解決するための適切な処方箋の提示に主流派経済学が失敗していることは間違いないからである。現実世界をより良く理解するために他の社会諸科学の考え方を積極的に活用しようとする著者の姿勢から、われわれは多くを学ぶことができる。

本書の魅力の一つは、経済学はもとより、社会学・政治学・歴史学などの幅広い分野の多様な学説が紹介されていることにある。これによってわれわれは、それぞれの学問に独自の視点と方法について知ることができる。経済学にかぎっても、古典派に始まり、マルクス派・歴史学派・制度学派・新古典派・ケインズ派にいたるまで、経済学史上の主要な学派の見解がほぼ網羅的に取り上げられており、経済思想への恰好の手引きにもなっている。これと併せて、さまざまな学説の特徴や問題点について説明するさいに数多くの興味ぶかい具体的事例が用いられており、読者を退屈させることがない。筆者の巧みな筆力に導かれて、多くの読者は、本書の議論にたちまち引き込まれることになるだろう。


歴史や思想の学習が軽視される経済学教育

スキデルスキー氏は、社会諸科学との幅広い協働を通じた経済学の方向転換を訴える。そのため本書の議論は、経済学教育のあり方にまで及んでいる。今日、多くの国々の大学での経済学教育においては、数学的・統計的な分析手法の習得に重きが置かれる一方で、経済に関する歴史や思想の学習は軽視される傾向にある。現在経済学の根幹をなすミクロ経済学・マクロ経済学・計量経済学の学習が重要であることは論を俟たないが、しかし、人間や社会のありようについての理解を深め、そのあるべき姿を探究してゆくためには、豊かな人文知を涵養することが欠かせない。ケインズが述べているように、経済学者は、「ある程度まで、数学者で、歴史家で、政治家で、哲学者でなければならない」とするならば、経済学の教育においては、経済学史や経済史の学習を通じて、多様な角度から社会を見る眼を養ったり、歴史的なものの見方を身につけたりすることが必要となる。さらに、「人間の性質や制度のどんな部分も、まったく彼の関心の外にあってはならない」のであるとすれば、社会学・政治学・歴史学・倫理学などの社会諸科学を広く学ぶことによって、視野を広げるための努力も望まれるであろう。経済学教育の改革に関する著者のかねてからの主張は、本書の最終章でも披露されている。

日本の多くの大学の経済学部においても、大学改革の嵐が吹き荒れるなか、短期的な成果ばかりが求められるようになっており、そのあおりを受けるかたちで歴史・思想分野の科目の縮小が進んでいる。しかしながら経済学が、「モラル・サイエンス」の一分野として広い視野から現実の社会を考察し、さらにそれを踏まえて経済問題を解決するための適切な方策を提示することによって、人々の「良き生活」の実現に寄与するという本来の役割を果たすべきであるとするならば、こうした経済学教育の現状について今一度立ち止まって再考するべきではないだろうか。

[書き手]鍋島直樹(名古屋大学大学院経済学研究科教授)
経済学のどこが問題なのか / ロバート・スキデルスキー
経済学のどこが問題なのか
  • 著者:ロバート・スキデルスキー
  • 翻訳:鍋島 直樹
  • 出版社:名古屋大学出版会
  • 装丁:単行本(288ページ)
  • 発売日:2022-06-15
  • ISBN-10:4815810885
  • ISBN-13:978-4815810887
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