■神話を学ぶと何がわかるのか
ある人が「神話を学びたい」といった。なぜ神話を学びたいのかといえば、日本のことをきちんと知りたいのだという。神話は確かに日本の文化の一角をなす大事なものであり、学ぶことで、日本についての知識はより深まるだろう。と一応はいうものの、神話を学べば日本のことを知ることができる、という言葉はよく考えると難しい。その日本はいつの日本なのだろうか。またそれは現在の日本の国境の内側の地域を指すのだろうか。現在の日本の国境内のことが、神話を学ぶとわかるのだろうか。過去の何をもって「日本」と呼ぶのかは、漠然としている。もちろんその人はそのような厳密な話をしたいわけでないのは、わかっている。漠然としていて構わないのであり、その漠然とした「日本」的な世界を、神話は伝えると想像されるのである。この漠然とした「日本」は唯一無二の、連綿と続く共同体なのであり、神話はこの共同体イメージを補強する。つまり神話を頼りに「わたしたちの共同体は、このような同じはじまりを持つ」と像を描くことが可能になる。それでは、共同体とはなんだろう。共同体に地域がつけば地域共同体になり、国家がつけば国家共同体になる。なにが「わたし」の共同体かは、地域・時代により異なっている。あるいは「わたし」を含みこむ人々、場も重層的だ。ひとりの「わたし」はさまざまな位相の共同体に所属する。例えばこのわたしは日本という国に所属している。そして文学研究者のコミュニティの一員である(たぶん)。町内会の一員でもある。来年は班長なので町内会会議に出席し、町のことについてたくさん考えていかなければいけない。
■神話=国家共同体のもの?
このように、たくさんの共同体にわたしたちは含みこまれている。それにもかかわらず、神話は国家共同体のものというイメージが強くある。その人が口にしたのは「神話を学びたい」ということにすぎなかった。けれどもその「神話」について、わたしは会話の最初から『古事記』『日本書紀』に含まれる神の物語のことと想定し、実際そうであった。そしてそれが「日本」という国家への関心と結びついていたのだった。しかし、神話は必ずしも国家のものである必要はない。例えばどこか特定の地域の共同体が、その「はじまり」を語り共有する、地域の神話もありえるだろう。あるいは『古事記』や『日本書紀』は、「国家」の「はじまり」を語るものというイメージ、それは当然「国家」が成立したのちでないと共有されえないイメージである。神話に耳を傾ける行為は、その共同体が強い輪郭を持つ、あるいは持とうとすることと関係する。共同体は常に形を変え続けるが、同時に何かの弾みに強い輪郭を希求する。「神話」といえば『古事記』『日本書紀』でそれが、国の成り立ちを知るものであると考えるわたしたちは、今も国家がこうした強い輪郭を希求した時期の影響下にあるともいえる。
しかし共同体は国家ばかりではない。わたしたちがわたしたちの所属をどう考えるのか、という問いが揺らぐたびに、神話に耳を傾ける場がはじまるのである。
■活性化する「神話」への希求を考える
さて、インターネットがこんなにも生活に雪崩れこんだことで、「わたしたち」と「わたしたちではないもの」を分ける境目は、まったくもって地理的境目だけではなくなった。わたしはいま、電車の中でキーボードを鳴らしており、わたしのすぐ隣りでは女性が携帯電話を眺めている。わたしはその人が誰かを知らない。少なくともその人はわたしに連なる人ではない。それでいて一昨日はメキシコの友人にメールをし、昨日は中国の友人からメールが来た。隣り合う人の声が聞こえぬまま、何千キロと離れた誰かの言葉に応えようとする。では、わたしに連なるのは誰だろう。隣りの人と何を共有しているのか知らぬまま、遠くの誰かに懐かしさを感じるわたし「たち」をどのように規定するのだろう。場所と共同体との結びつきは日々刻々と不安定になる。しかし、これは今にはじまったことではない。大航海時代と呼ばれる移動の世紀は15世紀にはじまり、そこから植民地なるものが派生していった。ここではない場所にルーツがあるというイメージ、あるいはここを我が物顔に歩くものたち、彼らと我々は異なるルーツを持つというイメージ、場所と「わたしたち」のズレは、むしろ神話を希求する行為につながっていった。
『人はなぜ神話〈ミュトス〉を語るのか 拡大する世界と〈地〉の物語』は、世界の拡大により、「わたしたち」ではないものがこの場——〈地〉を踏みしめ、あるいは「わたし」が「わたしたち」の場から遠く離れることで、活性化する神話〈ミュトス〉について考える。今も世界は拡大を続け、そのなかでわたしとわたしの〈地〉は物理的には分断され続ける。そしてゆえにそこから「わたしたち」のための物語、「神話」への希求が活性化するのである。
[書き手]南郷 晃子(なんごう・こうこ)
桃山学院大学国際教養学部准教授、神戸大学国際文化学研究推進インスティテュート連携フェロー。専門は近世説話。著書に「松山城─蒲生家の断絶と残された景色」(二本松康宏・中根千絵編『城郭の怪異』三弥井書店、二〇二一年)、「奇談と武家家伝--雷になった松江藩家老について」(東アジア恠異学会編『怪異学講義』勉誠出版、二〇二一年)。