描いた場所が分からない画家・巴水
川瀬巴水の絵(木版画)はどこを描いたのか、分からない場合が多いと思います。それは巴水がいわゆる「名所」を選ばずに、どこにでもある風景を描くからです。かつて、巴水のお嬢さんである川瀬文子さんから、父(巴水)と母、そして私の三人で旅行すると、母と私が素敵だと思う風景を眺めていても、父は全く別の方角や場所を眺めている場合が多かったとお聞きしました。
巴水は、どこにでもある、当たり前の風景を愛したのでしょう。でも、そういう風景こそが先に失われてしまう。巴水の絵を追い掛ける旅をしていると、そのことがよく分かります。
当初、巴水の会(正式名称:川瀬巴水とその時代を知る会)を始めた時、絵の位置を確定するのは難しいことじゃない、まだ六、七十年前のことだし、写真や資料がいくらでも残っているだろうと思ったのです。ところが、こういうものがほとんど見つからないのです。大正、昭和の時代であれば、すでに写真は多く撮られていたはずですが、残っているのは、名所旧跡のものばかりでした。
巴水の会の探索は、それでいきなり壁にぶつかったのですが、この壁を乗り越えたところに魅惑の世界が広がっていました。それは「ブラタモリ-NHK」+ミステリー小説の醍醐味と言って良いでしょう。私たちが経験した二つのケースをご紹介します。
「河原子乃夜雨」1947年
巴水の絵の中でも極めて評価の高い作品に「河原子乃夜雨」(かわらごのやう)があります。ひなびた漁師町に降る雨、その何とも寂しく侘しい風景を捉えた秀美の一作です。この絵が描かれた場所は、茨城県日立市河原子町の中心にあり、比較的簡単に発見することができました。2015年に作家の林望さんと私(染谷)の二人で探索した時も、またその後に巴水の会で探索した時も、恐らくここだろうという場所がありました。しかし、道と側溝は絵の通りなのですが、周囲の風景が一変していて、証拠となるものが残っていません。さらに近辺を探索すると、他にも似たような場所があり、いささか不安になってきました。
そんな時に、巴水の会のお一人が、側溝に渡してある「石」を発見しました。「この石、ひょっとして…」と、巴水の絵やスケッチと照らし合わせると、絵に描かれている石に間違いありません。さらに、巴水の会のお一人が、この石の脇は、そのむかし白木屋という旅館で、今は解体されてしまったが、土地の持ち主は近くのT旅館だとおっしゃいます。関係者に話を聞けば何か分かるかも知れないと、旅館のご当主をその場に連れてきてくださいました。
ご当主は、この石はここを取り壊した時に邪魔で、半分壊した後に、石の上でピョンピョン飛び跳ねたけれど壊れなかったとお話しになりました。巴水の会一同が「だめですよ、そんなことしちゃ(笑)」と思わず声を上げたことは言うまでもありません。ご当主は、今では有難いことに、この河原子の「巴水の石」の下に別の石をきちんと敷き詰めて、崩れないように守ってくださっています。
巴水版画の探索は、宝探しと言いますか、万事がこんな調子で楽しい限りなのです。
「金郷村」1954年
もう一つのケースは「金郷村」(かなごうむら)です。こちらは正真正銘の大発見でした。巴水の絵というのは、雨・雪・夕暮れなど、比較的暗い絵が多いのですが、この絵は珍しく明るさに満ちています。「おだがけ」された稲の束が、まさに金色に輝く絵で、題名と直截的に響き合っています。かつては、日本のどこにでもあった風景ですが、このどこにでもありそうなことが、場所を確定するのに大きな壁となりました。
そもそも「金郷村」というのが今は存在しません。かつては茨城県北部に存在した村ですので、その場所を何度も尋ねましたが分かりませんでした。探し始めて1年半、会のメンバーも半分諦めかけておりましたところ、メンバーお一人が次の写真を一枚持って巴水の会に現れました。
昭和三十六年に撮影された航空写真です。巴水が描いた時期から、まだそれほど経っていない頃のものです。よく見ると、巴水の絵と、写真の家の配置とが見事に当てはまります。そこで、この跡とおぼしき場所に建っている家を探し、ご当家を直接訪ねたところ、写真が出てきました。
写真と絵の母屋の姿がぴたりと重なりました。もう巴水の絵の場所がこのお宅であることは、間違いありません。さらにそのお宅は、秋田からこの地に移住して、瓦を作る商売をされてきたことも分かりました。なるほど、巴水の絵をみますと、家は全て瓦で、しかも母屋の屋根は見事な兜造り(武士の兜に似た形容から名付けられた)です。
この地に巴水が来訪したのは、昭和二十年の秋、日本は戦争に敗れて、巴水の住む東京は焼け野原でした。巴水はそうした惨状をくぐりながら、この輝くばかりの瓦の屋根と、金色に染まるおだがけの稲を見た時に何を思ったのでしょうか。それは、延々と続いてきた豊かな日本の姿と同時に、未来に続く日本の姿でもあると思ったに違いありません。
比較的暗い絵の多い巴水の中で、なぜこの絵が異様に明るいのか、そこに込められた巴水の思いがこの探索から分かったように思いました。そして巴水は絵の題材として単に普通の場所を描いているのではないことも。そこには巴水の深い感動が込められていたのです。
この探索を行わなければ、巴水の絵の持つ意味は永遠に分からずじまいだったかも知れません。また、ご当家の写真も失われてしまった可能性が高いでしょう。それを考えると、いま巴水探索を行うことがいかに重要か分かってきます。
本書は茨城県を中心に探索を重ねましたが、他の県や地域でも同様の発見や考察が可能だと、私たち巴水の会は考えています。しかし、残された時間はあまりありません。もう十年、二十年もすれば、河原子の石のような痕跡や、金郷村の写真のような記録は、大方失われてしまうでしょう。少なくとも、そうした痕跡や記録を知っている方はみなこの世を去ってしまうでしょう。本書が「巴水の絵を持って小旅行に出よう」と訴えるのはそのためです。巴水は全国津々浦々を旅して版画に遺しました。皆さんのお近くにも巴水は必ず来ています。
その痕跡を探しつつ、巴水の思いを探る、そうした旅をぜひ試みて欲しいと思います。
[書き手]染谷智幸(そめや・ともゆき)
博士(文学)。茨城キリスト教大学文学部教授、国際新版画協会理事。専門は日本近世文学・日韓比較文化・文学。著書に『西鶴小説論』(翰林書房)、『冒険・淫風・怪異』(笠間書院)、編著に『はじめに交流ありき』(東アジア文化講座第1巻、文学通信)、『全訳 男色大鑑・武士編/歌舞伎若衆編』(文学通信)、『日本近世文学と朝鮮』(勉誠出版)など。