自著解説

『カースト再考―バングラデシュのヒンドゥーとムスリム―』(名古屋大学出版会)

  • 2023/04/11
カースト再考―バングラデシュのヒンドゥーとムスリム― / 杉江 あい
カースト再考―バングラデシュのヒンドゥーとムスリム―
  • 著者:杉江 あい
  • 出版社:名古屋大学出版会
  • 装丁:単行本(426ページ)
  • 発売日:2023-02-21
  • ISBN-10:4815811121
  • ISBN-13:978-4815811129
内容紹介:
宗教が異なれば社会のかたちも異なる、という図式は、本当に有効なのか。生活の場を介して、カーストを含む多様な集団が相互に交錯する過程を、宗教の別をこえてトータルに把握。物乞いや聖者など宗教横断的な主体も視野に、分裂した南アジア像が覆い隠してきたものをすくいだす。
古代から仏教の興隆と繁栄をみたベンガルの一部であり,近年は目覚ましい経済成長を遂げているバングラデシュ。日本と深い関わりをもつ国のひとつではあるものの,その地域・社会・文化への理解はそれほど進んでいないのが現状です。
学生時代にバングラデシュを訪れ,ある出会いをきっかけに調査と研究に取り組んできた杉江あい先生。2月に刊行された初の単著『カースト再考』について,書き下ろしの自著紹介を寄稿していただきました。

インドだけではない? 南アジア地域への理解を深めるために

本書は「カースト再考」がタイトルなのに,副題は「バングラデシュのヒンドゥーとムスリム」になっている。カーストの話ならインドじゃないのか?ヒンドゥーが出てくるのはわかるが,なぜムスリム(イスラーム教徒)が関係あるのか?と思われる方は多いだろう。

インドといえばヒンドゥー教,カースト,というようなイメージは根強いと思う。このようなイメージが流布している一因は,日本の学校教育でインドにはヒンドゥー教に基づくカーストが存在すると,定型的に教えられてきたことであろう。2022年4月から,高校の授業で「地理総合」が必修科目になった。新しく使われる「地理総合」の教科書(令和3年3月30日文科省検定)は6冊あるが,そのうち5冊がカースト(制度)という言葉を掲載している。私の手元にある3冊の教科書でカーストがどのように説明されているか見てみよう。

インド社会は古代より,ヒンドゥー教の教えに基づくカースト制とよばれる身分制度に規定されている(『高等学校 新地理総合』帝国書院p.97)

ヒンドゥー教と仏教はインドで生まれ…(中略)…ヒンドゥー教徒にとってガンジス川での沐浴は,身を浄めるための欠かせない慣習で,カーストとよばれる身分制度も,都市部では薄らいでいるが,農村部では依然として根強く残っている(『地理総合』二宮書店p.111)

この浄・不浄の概念はカーストとよばれる階級制度に結びつき,長くインド社会を規定してきた(『わたしたちの地理総合』二宮書店p.93)

やはりインド,ヒンドゥー教,カーストというのはセットになっている。私もずっと,漠然とこの3つをセットにした定型的なイメージを持っていた。しかし,このイメージは,バングラデシュの村で被差別のムスリムの人たちと出会ったことによって,切り崩されることになった。

差別されるムスリムの人たち

その人たちは,楽器演奏が職能であることを示す「シャナイダル」と呼ばれ,近隣に住むムスリムたちから蔑まれ,結婚や社会的交流を避けられていた。こうした差別は,機織りを職能とする「カリゴル」と呼ばれるムスリムたちも受けていた。

このとき,私は博士前期課程(修士課程)にいたが,きちんと(と言えるかどうかも怪しいが)読んでいたのはバングラデシュに関する日本語の文献くらいで,隣国のインドや南アジア全般を扱ったテキストはほとんど見ていなかった。帰国してから,英語で書かれたバングラデシュの村についての本やインド,南アジア関連の文献を見てみた。すると,ヒンドゥー教徒以外の人びとの間でもカーストと同様な身分が見られることは,南アジアに関わる研究者の間ではよく知られていることだとわかった。しかし,問題は,そうしたヒンドゥー教徒以外の間で見られる身分をカーストと認めるか否かである。この問題の決着はついておらず,ヒンドゥー教徒以外のカーストについては「カーストに類似した集団」などと曖昧に言及されていた。

これには困った。私は「シャナイダル」と呼ばれる被差別のムスリムの人たちについて,いろいろなところで話をしたが,カーストという言葉を避けると「なぜカーストと言わないのか」と聞かれ,逆にカーストと言うと「カーストという用語を使用するのは適切でない」などと言われたりした。このことは今から思えば,カーストに対する認識が日本の学術界においても確固としたものでないことを示しているが,どの言葉を使えばいいのか,ますますわからなくなった。しかし,そもそもカーストをヒンドゥー教に固有の身分とする定義が,ヒンドゥー教徒以外で見られるカーストをどのように認識するのかをめぐって混乱を引き起こしているのではないかと考えるようになった。

宗教が異なれば、社会のかたちも異なるのか

カーストをヒンドゥー教に固有の身分とする定義(そもそも「カースト」という言葉自体)は,インド(現在のバングラデシュにあたる地域を含む)がイギリスによって植民地化され,統治と密接に結びついた民族学および統計調査のなかで定着していったものである。この定義の根底にあるのは,宗教によって社会(構造)は異なるという前提である。この前提はイギリスからインドとパキスタン(のちに東パキスタンがバングラデシュとして独立)に分かれて独立したあとの研究でも引き継がれた。こうして,インド=ヒンドゥー教=カースト,それに対してバングラデシュ=イスラーム教=個人主義(または平等主義)というような定型的なイメージがつくられてきた。しかし,私がバングラデシュの村で見聞きしたカーストなるもの,すなわち特定の集団を差異化したり序列化したりする作法は,宗教によって異なっているわけではなかった。そのため,本書ではバングラデシュのヒンドゥーとムスリムの間で見られるカーストなるものの実態を明らかにすることによって,カーストという概念を再考しているのである。

上で紹介した教科書のカーストの説明に戻ろう。インド=ヒンドゥー教=カーストという定式が教え続けられていることは,現代の学術的な知,そしてそれをもとになされる学校教育が,今もなお植民地時代に構築された知の枠組みから自由になっていないことを意味する。本書はこのような知を,在地社会の実態を内在的に理解することによって脱植民地化させるものである。念のため言っておくが,私は本書をもって教科書の記述を修正するべきだと主張しているわけではない。しかし,本書が教科書から一歩進んで,地域に対する理解を深めるきっかけになれば幸甚である。

[書き手]杉江あい(京都大学大学院文学研究科講師、専門は人文地理学・地域研究)
カースト再考―バングラデシュのヒンドゥーとムスリム― / 杉江 あい
カースト再考―バングラデシュのヒンドゥーとムスリム―
  • 著者:杉江 あい
  • 出版社:名古屋大学出版会
  • 装丁:単行本(426ページ)
  • 発売日:2023-02-21
  • ISBN-10:4815811121
  • ISBN-13:978-4815811129
内容紹介:
宗教が異なれば社会のかたちも異なる、という図式は、本当に有効なのか。生活の場を介して、カーストを含む多様な集団が相互に交錯する過程を、宗教の別をこえてトータルに把握。物乞いや聖者など宗教横断的な主体も視野に、分裂した南アジア像が覆い隠してきたものをすくいだす。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

初出メディア

ALL REVIEWS

ALL REVIEWS 2023年4月11日

  • 週に1度お届けする書評ダイジェスト!
  • 「新しい書評のあり方」を探すALL REVIEWSのファンクラブ
関連記事
名古屋大学出版会の書評/解説/選評
ページトップへ