後書き

『数学者たちの黒板』(草思社)

  • 2023/07/26
数学者たちの黒板 / ジェシカ・ワイン
数学者たちの黒板
  • 著者:ジェシカ・ワイン
  • 翻訳:徳田 功
  • 出版社:草思社
  • 装丁:単行本(240ページ)
  • 発売日:2023-07-18
  • ISBN-10:4794226578
  • ISBN-13:978-4794226570
内容紹介:
「数学が生み出されるところなら、必ずどこかに黒板があるだろう。 」 数学といえば、抽象的な学問でいかにもデジタル化が進んでいそうに思えますが、実は数学者の多くにとって、黒板はいまで… もっと読む
「数学が生み出されるところなら、必ずどこかに黒板があるだろう。 」 数学といえば、抽象的な学問でいかにもデジタル化が進んでいそうに思えますが、実は数学者の多くにとって、黒板はいまでも数学のための最重要ツールであり続けています。黒板は数学と向き合い、数学者たちや生徒たちとつながり、数学の世界を拡張してゆくのに必要不可欠な存在なのです。そんな黒板に見せられた写真家が、フィールズ賞受賞者を含む100を超える数学者の板書を撮影し、その板書を描いた数学者による、数学と黒板への思いが綴られたエッセイを添えた本書。「数学の手触り」が感じられるような、唯一無二の、黒板×数学フォトエッセイ!■登場する数学者スン=ユン・アリス・チャン、アラン・コンヌ、ミーシャ・グロモフ、アンドレ・ネヴェス、カソ・オクジュ、ピーター・ショア、クリスティーナ・ソルマニ、テレンス・タオ、時枝正、クレール・ヴォイシンほか■数学者たちの黒板に関するコメント「その長い歴史にもかかわらず、黒板は、数学について考え、伝達するための比類なきテクノロジーだ 」「私は黒板が絶対になくならないでほしい。もしそうなったら、数学にとって大きな損失になるだろう」「黒板が私の人生を変えたと言っても過言ではない」「黒板は、一人で作業するときには、とても便利なものだが、共同研究者と議論するときや授業では、欠かせないものになる」「地球上から黒板がなくなるまで(いつになるか分からないが)、誰もが日本製の上質のチョークを常に持ち歩くべきだ 」「ホワイトボードは私にとってそこまで魅力的ではない」「寝室に黒板を備え付けるべきだと妻を説得し、実際にそうした 」
みなさんも、かつて黒板に板書された授業の内容をノートに写して勉強した経験があると思います。その意味で黒板は私たちにとって身近な存在とも言えますし、一方である時期を過ぎれば一気に疎遠になってしまうものでもあります。そんな黒板ですが、数学を研究する人にとって、実は私たちの想像以上に重要な存在であったのです。数学者たちが描いた、普段垣間見ることの少ない板書を写真に記録し、その黒板や数学にまつわるエッセイを収めた、異色の「黒板写真集」から、本書の魅力を凝縮した訳者あとがきをお届けします。

時代のテクノロジーを支える数学

数学者ってどんな人たちだろう? 普段目にすることのない数学者の生活に興味を持つ人は多いのではないだろうか。宇宙探索、無線通信、インターネット、AI、医療技術など、高度に発達した現代テクノロジーを支えている学術分野は多岐に渡るが、その中でも根幹の役割を果たしているのは数学であり、その数学を創り出しているのが数学者たちだ。数学者たちに興味を抱いても、彼ら彼女らの生き様を私たちが普段目にすることはあまりない。聞こえてくるのは、数学者たちの浮世離れした人物像だ。人との約束をすっぽかし、身だしなみも気にせず、話しかけても上の空。浮力の原理を発見したアルキメデスが服を着るのを 忘れて風呂場を飛び出し、「ヘウレーカ!ヘウレーカ!(わかった! わかったぞ!)」と叫びながら、裸のままで通りを駆け出したのは有名なエピソードだ。そんな数学者たちは、幼少期から数に取り憑かれ、変人扱いされることも多い。ネイト・ハーマンは、数学好きが高じて、高校時代に数学のチームに参加したが、そんなことをしては変人と思われることを気にして、女の子の気を惹くためという言い訳を作った、と本書のエッセイで告白している。

 

数学者を際立たせているのは何か?

『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』など、数学者の風変わりな生き様を描いた本や映画も存在する。この映画は、世界一優秀な学生の集まるマサチューセッツ工科大学(MIT)で、アルバイト清掃員として働く孤児の青年の物語だ。青年は、MITの学生が解けなかった難問をいとも簡単に解き、出題した教授を驚かす。邦画でも、交通事故で脳に損傷を受けた元数学者と、家政婦とその息子の心のふれあいを数式と共に描いた『博士の愛した数式』がある。これら2作はフィクションだが、実在の数学者を扱った、『ビューティフル・マインド』や『奇蹟がくれた数式』などもある。いずれも、天才数学者のジョン・ナッシュとシュリニヴァーサ・ラマヌジャンの数奇な人生を綴ったものだが、これらが共通して描くのは、周りに理解されることの少ない、孤高の数学者像だ。研究者にも、物理学者、生物学者、化学者、工学者などさまざまな種類があるが、このように数学者の特徴を際出させているのは何だろう? 数学が、実験とは基本的に独立した、論理のみをベースに、真実を追究する学問という点ではないかと思う。他の分野では、(もちろん分野や問題にもよるが)実験やコンピュータシミュレーションなど、論理以外の研究要素があり、それらを統合しながら研究を進めてゆくのが通常だ。これに対して、物理現象などに触発されることはあっても、原則的には、論理のみで議論を展開してゆくのが数学であり、この意味で、自分の頭脳のみが頼りの裸一貫の世界なのだ(近年では、コンピュータプログラムで証明を与えるなど、数学の方法論も多様化しているが)。証明は、正しいか、誤りか、あるいは証明できないかのいずれであり、白黒がはっきりしている厳しい世界だ。科学とは本来そのようなものだが、数学ほどに明確に判断される分野は少ないであろう。

 

頭の中は常に数学でいっぱい

このように実験をしない研究スタイルで出てくるのは、頭から研究がずっと離れることのない生活だ。私は大学で工学研究を行っているものだが、一旦、コンピュータや実験室から離れると、少なくとも物理的には研究から距離を置くことになる。これがスイッチとなって、日常生活に戻れるのだ。これに対して、どこにいても、数学の問題を考えることができるのが、数学者だ。数学者の佐藤幹夫先生は、若手の数学者に次のような言葉を残されている。「朝起きた時にきょうも一日数学をやるぞと思っているようでは、とてもものにならない。数学を考えながらいつの間にか眠り、目覚めた時にはすでに数学の世界に入っていないといけない」(木村達雄、筑波フォーラム1996年)。また、東北大学の千葉逸人先生によると、「頭の中に、永遠と書き続けることのできる黒板があり、筆記用具なしでも、その黒板で数学ができる」。数学者が浮世離れしてみえるのは、このように、頭の中が常に数学に専有されていて、その他のことに注意がいかないためなのだ。そこまでにのめり込むほどに数学が好きなのが、数学者なのだ。一般の人と違うのは当然であろう。

 

黒板から数学の奥深さをのぞき見る

そのような数学の世界にどっぷり浸かった人々の仕事場を垣間見、彼ら彼女らのエッセイを読むことができるのが本書だ。特に、アーティスティックに撮影された数珠の黒板写真は、数学者たちの闘いの場を映し出すものであり、彼らが本気で議論した様子を窺い知ることができる。もちろん、何が書かれているかを理解できる人は世界でも指折り数えられる程度であろう。それでも黒板からは、数学者たちの熱情が伝わってくる。これらの黒板の意味を、数学者たちも、自分自身の言葉で伝えている。私が読んで、数学の世界を感じることのできた、興味深いエッセイをいくつか紹介しよう。例えば、テレンス・タオは、数学が進展してゆく様子を、靄が晴れて地形が見えてくる様子に喩えている。靄で最初は何も見えなかったものが、徐々に孤立した頂上が見え始め、頂上と頂上の間に挟まれた地形、そして都市と道路が見え始める。「本当に面白いことが起こるのはここからだ」と言う。エレーヌ・エスノーは、数学の研究を旅に喩え、数学者が、問題に取り組み始めてから、試行錯誤の末に、解決の糸口を見出し、そして遂に問題を解決する様子を詩の形で描いている。印象的なのは、問題を解いた興奮の直後に、静寂が訪れ、証明が自分たちの手を離れてゆく様だ。数学は、個人に帰属すものではなく、証明された瞬間に万人の元に戻ってゆくのだ。エティエンヌ・ギスは、日記形式で、数学の進展を綴っている。7年間取り組んで進展のなかった問題が、若い学生の一言で一気に進展して解決に向かう様子が淡々と描かれており、数学者の何気 ない日常に劇的な瞬間が訪れることが分かる。

エッセイでは数学者の苦悩も感じられる。ローレン・K・ウィリアムズは、「行き詰まって、いら立たしく感じる時間がほとんどかもしれない。でも、目の前にある問題に没入していると、ごくたまに、アイデアや洞察が頭に浮かぶことがある」と書いている。アンクル・モイトラは、「物事が明瞭に見える日はほとんどない。実際のところ、疲労困憊の日々だ。私は、問題解決の明確な道筋がいよいよ見えてくると、他のことが目に入らなくなる。眠れず、ときには夜中に目が覚めて何時間も歩き回ることもある。(中略)このような振る舞いは、数学者でない人には、とても奇妙に思えるだろう。でも、特定の問題に長い時間没頭しているだけのことだ」と書いている。

 

黒板がつなぐ数学のコミュニティー

このように数学に没頭して、自分の世界に入り込んでいるように見える数学者たちだが、実は人間関係をとても重要視している。本書でも、パンデミックで黒板を使った直接の議論が出来なくなったことを多くの数学者たちが嘆いている。他の数学者との共同研究が、数学を大きく進展させているし、数学のコミュニティーの存在は、数学教育や研究には必要不可欠なのだ。数学を通じて出来上がった友情は、大きな葛藤を共有しただけに、より人間の感情の深部で通じ合ったものなのであろう。

 

オンライン授業がしっくりこなかった方にも

最後に、工学者としての私の黒板への思いを述べておきたいと思う。私自身は、実験やデータ分析、シミュレーションを併用した研究を行っており、研究で黒板を多用することはあまりない。ただし大学では、数学科目(確率統計学、応用数学など)を担当しており、講義では黒板を重要視している。大きな黒板を全面的に使い、出来るだけ大きな字で数式を書いてゆく。大きく書くと、それが制約となり、受講生に伝えたい重要な点を絞り込まなければならないため、必然的に考えが整理されてゆく。大きく書くと時間も掛かるため、受講生が読み易くなるだけでなく、内容を理解する時間も十分に確保できる。パンデミックの最中には、タブレットを使ったオンライン講義も試みたが、どうもしっくりこなかった。最新の技術に合わせられない私のような人間は古いのかとも思ったが、本書を訳し、自分の考えが少数派ではなかったことが分かり、安心した次第である。

 

[書き手]徳田 功(とくだ・いさお)

立命館大学理工学部機械工学科教授。筑波大学にて物理学専攻。東京大学にて博士号(工学)取得。著書に『機械力学の基礎』(共著、数理工学社)、訳書に『不確実性を飼いならす』(白揚社)、『インフィニティ・パワー』(丸善出版)、『同期理論の基礎と応用』(丸善出版)など。
数学者たちの黒板 / ジェシカ・ワイン
数学者たちの黒板
  • 著者:ジェシカ・ワイン
  • 翻訳:徳田 功
  • 出版社:草思社
  • 装丁:単行本(240ページ)
  • 発売日:2023-07-18
  • ISBN-10:4794226578
  • ISBN-13:978-4794226570
内容紹介:
「数学が生み出されるところなら、必ずどこかに黒板があるだろう。 」 数学といえば、抽象的な学問でいかにもデジタル化が進んでいそうに思えますが、実は数学者の多くにとって、黒板はいまで… もっと読む
「数学が生み出されるところなら、必ずどこかに黒板があるだろう。 」 数学といえば、抽象的な学問でいかにもデジタル化が進んでいそうに思えますが、実は数学者の多くにとって、黒板はいまでも数学のための最重要ツールであり続けています。黒板は数学と向き合い、数学者たちや生徒たちとつながり、数学の世界を拡張してゆくのに必要不可欠な存在なのです。そんな黒板に見せられた写真家が、フィールズ賞受賞者を含む100を超える数学者の板書を撮影し、その板書を描いた数学者による、数学と黒板への思いが綴られたエッセイを添えた本書。「数学の手触り」が感じられるような、唯一無二の、黒板×数学フォトエッセイ!■登場する数学者スン=ユン・アリス・チャン、アラン・コンヌ、ミーシャ・グロモフ、アンドレ・ネヴェス、カソ・オクジュ、ピーター・ショア、クリスティーナ・ソルマニ、テレンス・タオ、時枝正、クレール・ヴォイシンほか■数学者たちの黒板に関するコメント「その長い歴史にもかかわらず、黒板は、数学について考え、伝達するための比類なきテクノロジーだ 」「私は黒板が絶対になくならないでほしい。もしそうなったら、数学にとって大きな損失になるだろう」「黒板が私の人生を変えたと言っても過言ではない」「黒板は、一人で作業するときには、とても便利なものだが、共同研究者と議論するときや授業では、欠かせないものになる」「地球上から黒板がなくなるまで(いつになるか分からないが)、誰もが日本製の上質のチョークを常に持ち歩くべきだ 」「ホワイトボードは私にとってそこまで魅力的ではない」「寝室に黒板を備え付けるべきだと妻を説得し、実際にそうした 」

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