『資本主義の〈その先〉へ』(筑摩書房)
時代精神の運動、捉える想像力
ポスト冷戦は、世界中が資本主義にすっぽり包まれる時代。逃げ場のない牢獄だ。出口はないのか。ほこりを被っていた社会主義やコミュニズムが注目を集めている。
大澤真幸氏は言う。資本主義の終わりは想像しにくい。ならば<その先>を考えよう。まず資本主義がどんな運動だったかふり返るべき。マルクスの価値論、ヴェーバーの救済予定説…。正統な議論を追うと、利潤のあくなき追求が、自然科学や小説を含むもっと大きな時代精神の運動の一部なのだと見えてくる。
では、資本とは何か。市場で増殖する貨幣の運動だ。なぜ増殖するか。労働者の産み出す剰余価値を資本家が搾取するから。『資本論』のこの結論を大澤氏は大胆に読み換える。空間的・時間的に異なる価値体系さえあれば利潤は確保できる。だから資本主義は技術革新にこうも貪欲なのだ。
予定説のほうはどうか。全知全能の神は誰を救うかもう決めている。自分が救われるか不明で、救われるためできることもない。ならば、あたかも救われたかのように勤勉に働け。この衝動が極端なカルヴァン派の多い地域で、資本主義が興った。同じ衝動が今も資本主義を駆動する。
圧巻は、科学を論ずる第3章、小説を論ずる第4章だ。
自然科学は、経験を信じない。頼るのは実験だけ。得られるのも仮説に過ぎない。世界は未知のことだらけ。だから科学は知識を蓄積して進歩を続ける。真理は全知全能の神のもの。それに近づこうという衝動に駆られる。利潤を求める資本主義そのままだ。
小説は自然科学の対極にみえる。一八世紀にイングランドで始まった小説は、人間を個別具体的にどう描けるかで勝負した。人間の個性を消してかかる科学と反対だ。大澤氏はデフォー『ロビンソン・クルーソー』、フィールディング『トム・ジョウンズ』、フローベール『紋切型辞典』などを例に、個別の具体性からいかに万人に訴える普遍性が導かれるのかを解明する。たとえばトム・ジョウンズの生涯は波瀾万丈、偶然に次ぐ偶然だ。だがこの世界こそ、偶然の積み重ねではないか。神がそうやって偶然を配置し、誰もが具体的個人になる。ならば偶然の気まぐれで自分は他者に、他者は自分になる。個別の中に普遍が宿る。科学実験や予定説に通じよう。
自然科学も小説も資本主義と同根で、近代という大きな運動の一部なのだ。では、資本主義の未来をどう占うか。大澤氏の補助線は、見田宗介の≪交響圏とルール圏≫の理論。そして、中村哲医師とペシャワール会の活動だ。そこから遠望される<その先>の社会は、≪互いの間をつなぐ太い線をもったコミューンたちの集合という形態をとる≫だろうという。抽象的だが考え抜かれたスケッチだ。
本書の描く資本主義は、経済に収まり切らない巨大な運動だ。自然科学やキリスト教や国民国家や文化芸術や社会生活や、すべてを巻き込んでいる。小手先や思いつきで脱出できるはずもない。しかも資本主義はいまも変貌を続けている。その現状とこれからの姿を捉えない、どんな批判も空ぶりだ。資本主義の<その先>を考えるには想像力が必要。答えはコミュニズムでも環境急進主義でもない。あなたはどんな<その先>がみえるか。思想界もアカデミアも、挑戦状を受け取った。



































