書評

『通訳者と戦争犯罪』(みすず書房)

  • 2023/10/09
通訳者と戦争犯罪 / 武田珂代子
通訳者と戦争犯罪
  • 著者:武田珂代子
  • 出版社:みすず書房
  • 装丁:単行本(328ページ)
  • 発売日:2023-06-20
  • ISBN-10:462209617X
  • ISBN-13:978-4622096177
内容紹介:
通訳者は通常、原発話の内容やその結果とは無関係であるとされ、それを目標言語で忠実に伝達することについて法的責任を問われることはない。また、職務倫理においても公平性と中立性が要求さ… もっと読む
通訳者は通常、原発話の内容やその結果とは無関係であるとされ、それを目標言語で忠実に伝達することについて法的責任を問われることはない。また、職務倫理においても公平性と中立性が要求され、業務上知り得た事柄については守秘義務が生じる。しかしこうした平時の規範は、戦争や紛争のような暴力を伴う敵対状況下の通訳にも通用するのだろうか?
本書は、実際に通訳者が戦争犯罪に関与したとして訴追され、有罪判決を受けた歴史的事例としてアジア太平洋戦争後の英国による対日BC級戦犯裁判を参照し、そこから今日の通訳者の責任と倫理を論じるものである。第I部では、通訳被告人(台湾人、占領地市民、日系二世を含む)の動員経緯や業務内容、裁判中の供述、抗弁、判決等を詳述し、通訳者がどのようにして罪に問われたのかを精査する。同時に、同裁判で通訳者が業務中に目撃した雇用主(日本軍)の行為について証言を行ったことにも着目する。第II部では、英軍裁判に加え、イラクやアフガニスタンなど現代の戦争の事例も参照しながら、「可視性」や「近接性」の観点から通訳者が抱えうるリスクを検討。従軍通訳という究極的なケースをも包含する堅牢な通訳理論の構築を提起する。
現場感覚と研究の蓄積に裏打ちされた書。

安全と中立性を守るための提言

十二世紀ルネッサンス期には、重篤な誤訳を犯した翻訳者は重刑に処されたという。翻訳者の使命を綴る書物はつとに多いが、それに比べて通訳に関する専門研究書が一般読者に届くことは少ない。その意味でも本書はきわめて貴重なモノグラフである。

戦地や戦場に同行する「従軍通訳者」に対象を絞り、通訳者の倫理と責任と保護について深く論じる。通訳者・翻訳者は「黒子」や「導管」のように透明な中立者だという桃源郷的な理想論は打ち砕かれるだろう。本書によれば、アジア太平洋戦争のBC級戦犯裁判における英軍裁判では、三十九人の通訳者が起訴され、じつに三十八人が有罪となり、九人(うち台湾人六人)が死刑に処されたという。

著者は通訳の言葉(テクスト)ではなく通訳者という「人」に焦点を当て、その生い立ち、国籍、学歴、軍の成員なのか軍属なのか現地の臨時雇いなのかといった、通訳が成立するまでのコンテクストを緻密に洗い出すことから始める。

言葉ではなく人を研究せざるを得ないのは、対面通訳が本質的に抱える身体性と関係がある。自らの訳文が使われる場にほとんど居合わせない翻訳者と違い、通訳者は原発話者(発言者)と聞き手に近く接しながら訳すことが多い。このことから「近接性」と「可視性」という二つのキーワードが出てくる。翻訳学で近接性といえば、二つの言葉の言語的な近さを意味し、可視性とは翻訳(者)の存在が意識されるか否かという問題を指すが、本書では物理的な「近い」であり「見える」なのだ。

異言語を解さぬ者にとって、発言者より近くに存在しよく見えるのは、直接話しかけてくる通訳の方であり、一軍属あるいは臨時雇いの通訳が、軍人より上位に見えることもあったという。結果、通訳者が主体的に判断し命令を出して、尋問や拷問を行っていると解釈され、有罪判決につながった。

第六章で論じられる通訳者の「発話の作者性」という問題とも関連してくるが、通訳者が直接話法を使うか間接話法を使うかで、発言者と誤解されるリスクは変化する。とはいえ、いわゆる“透明な訳”では事足りぬ場合もあった。通訳の仕方が「女々しい」と叱責された例が引かれ、通訳者も軍司令部に共鳴する形で、「ある程度の権威を示して、日本軍の代理人という役割に自己を投影」すること、発言者に成りきる姿勢が求められたことがわかる。

こうした通訳者の近接性には三つのリスクがあると著者はまとめている。一つは武力抗争の最前線に晒される。二つめは、言語仲介だけでなく、拷問や尋問への荷担など身体的行動を含む任務を追加的に課される。三つめは、違法行為など目撃したことをのちに供述・証言させられる。三番からは守秘義務などの職務倫理との板挟みも生じるが、自ら犯罪者となることでもあり、人道や良心に悖ることになる。

それを避けるために、あえて誤訳をした例も引かれ、ユダヤ人を救った通訳者を描くウリツカヤの『通訳ダニエル・シュタイン』や、法廷通訳の操作性を扱ったスキ・キム『通訳』などの小説も思い起こした。

通訳者の身の安全、中立性、潔白性を守るため、通訳学に留まらない学際的な研究と領域横断的な協働を。本書はそう提案している。
通訳者と戦争犯罪 / 武田珂代子
通訳者と戦争犯罪
  • 著者:武田珂代子
  • 出版社:みすず書房
  • 装丁:単行本(328ページ)
  • 発売日:2023-06-20
  • ISBN-10:462209617X
  • ISBN-13:978-4622096177
内容紹介:
通訳者は通常、原発話の内容やその結果とは無関係であるとされ、それを目標言語で忠実に伝達することについて法的責任を問われることはない。また、職務倫理においても公平性と中立性が要求さ… もっと読む
通訳者は通常、原発話の内容やその結果とは無関係であるとされ、それを目標言語で忠実に伝達することについて法的責任を問われることはない。また、職務倫理においても公平性と中立性が要求され、業務上知り得た事柄については守秘義務が生じる。しかしこうした平時の規範は、戦争や紛争のような暴力を伴う敵対状況下の通訳にも通用するのだろうか?
本書は、実際に通訳者が戦争犯罪に関与したとして訴追され、有罪判決を受けた歴史的事例としてアジア太平洋戦争後の英国による対日BC級戦犯裁判を参照し、そこから今日の通訳者の責任と倫理を論じるものである。第I部では、通訳被告人(台湾人、占領地市民、日系二世を含む)の動員経緯や業務内容、裁判中の供述、抗弁、判決等を詳述し、通訳者がどのようにして罪に問われたのかを精査する。同時に、同裁判で通訳者が業務中に目撃した雇用主(日本軍)の行為について証言を行ったことにも着目する。第II部では、英軍裁判に加え、イラクやアフガニスタンなど現代の戦争の事例も参照しながら、「可視性」や「近接性」の観点から通訳者が抱えうるリスクを検討。従軍通訳という究極的なケースをも包含する堅牢な通訳理論の構築を提起する。
現場感覚と研究の蓄積に裏打ちされた書。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2023年7月22日

毎日新聞のニュース・情報サイト。事件や話題、経済や政治のニュース、スポーツや芸能、映画などのエンターテインメントの最新ニュースを掲載しています。

  • 週に1度お届けする書評ダイジェスト!
  • 「新しい書評のあり方」を探すALL REVIEWSのファンクラブ
関連記事
鴻巣 友季子の書評/解説/選評
ページトップへ