安全と中立性を守るための提言
十二世紀ルネッサンス期には、重篤な誤訳を犯した翻訳者は重刑に処されたという。翻訳者の使命を綴る書物はつとに多いが、それに比べて通訳に関する専門研究書が一般読者に届くことは少ない。その意味でも本書はきわめて貴重なモノグラフである。戦地や戦場に同行する「従軍通訳者」に対象を絞り、通訳者の倫理と責任と保護について深く論じる。通訳者・翻訳者は「黒子」や「導管」のように透明な中立者だという桃源郷的な理想論は打ち砕かれるだろう。本書によれば、アジア太平洋戦争のBC級戦犯裁判における英軍裁判では、三十九人の通訳者が起訴され、じつに三十八人が有罪となり、九人(うち台湾人六人)が死刑に処されたという。
著者は通訳の言葉(テクスト)ではなく通訳者という「人」に焦点を当て、その生い立ち、国籍、学歴、軍の成員なのか軍属なのか現地の臨時雇いなのかといった、通訳が成立するまでのコンテクストを緻密に洗い出すことから始める。
言葉ではなく人を研究せざるを得ないのは、対面通訳が本質的に抱える身体性と関係がある。自らの訳文が使われる場にほとんど居合わせない翻訳者と違い、通訳者は原発話者(発言者)と聞き手に近く接しながら訳すことが多い。このことから「近接性」と「可視性」という二つのキーワードが出てくる。翻訳学で近接性といえば、二つの言葉の言語的な近さを意味し、可視性とは翻訳(者)の存在が意識されるか否かという問題を指すが、本書では物理的な「近い」であり「見える」なのだ。
異言語を解さぬ者にとって、発言者より近くに存在しよく見えるのは、直接話しかけてくる通訳の方であり、一軍属あるいは臨時雇いの通訳が、軍人より上位に見えることもあったという。結果、通訳者が主体的に判断し命令を出して、尋問や拷問を行っていると解釈され、有罪判決につながった。
第六章で論じられる通訳者の「発話の作者性」という問題とも関連してくるが、通訳者が直接話法を使うか間接話法を使うかで、発言者と誤解されるリスクは変化する。とはいえ、いわゆる“透明な訳”では事足りぬ場合もあった。通訳の仕方が「女々しい」と叱責された例が引かれ、通訳者も軍司令部に共鳴する形で、「ある程度の権威を示して、日本軍の代理人という役割に自己を投影」すること、発言者に成りきる姿勢が求められたことがわかる。
こうした通訳者の近接性には三つのリスクがあると著者はまとめている。一つは武力抗争の最前線に晒される。二つめは、言語仲介だけでなく、拷問や尋問への荷担など身体的行動を含む任務を追加的に課される。三つめは、違法行為など目撃したことをのちに供述・証言させられる。三番からは守秘義務などの職務倫理との板挟みも生じるが、自ら犯罪者となることでもあり、人道や良心に悖ることになる。
それを避けるために、あえて誤訳をした例も引かれ、ユダヤ人を救った通訳者を描くウリツカヤの『通訳ダニエル・シュタイン』や、法廷通訳の操作性を扱ったスキ・キム『通訳』などの小説も思い起こした。
通訳者の身の安全、中立性、潔白性を守るため、通訳学に留まらない学際的な研究と領域横断的な協働を。本書はそう提案している。