最良の理解者を得た精神科医と臨床心理士による、白熱のダイアローグ
ささやかな告白から始めよう。ここ数年、新聞や週刊誌で連載をしてみたり、新書を出してみたりと、広く社会に向けて文章を書くことにチャレンジしてきた。そうやって多くの人に心についての関心を持ってもらうことは、心理士としての重要な仕事だ(いわゆる「心理教育」というやつだ)。実際、そこから学ぶこともやりがいもとても大きかったから、これからも続けていこうとは思っている。
だけど、そういう仕事をしながら、いつもどこかで居心地の悪さを感じている自分もいた。というのも、実のところ、僕の興味関心は「心の臨床」というきわめて狭い領域に限定されていて、僕の欲望は臨床心理学に対して何か新しいことを言いたい、ということに尽きているからだ。僕は本来、広い読者を相手にするにはマニアックすぎる書き手なのだと思う。
もちろん、心は誰もが持っているものだから、オオサンショウウオの専門家であるよりかは、心の専門家のほうがマニアック度合いで言えばマシな気はする。生きていれば、誰もがある程度は心を病むわけだし、日常的に心のケアを必要とする。それゆえに、世の中のいろいろなものが臨床心理学と関係してくるので、僕もそれなりに各方面に広くアンテナを張ってはきた。
例えば、僕はシャーマニズムが好きだし、悪魔祓いとかもめちゃくちゃ関心がある。除霊を受けたこともあれば、前世を見てもらったこともあり、高額のスピリチュアルセミナーに通ったことだってある。だけど、それは霊の世界に本気の関心があるからということではない。『野の医者は笑う——心の治療とは何か?』(誠信書房、二〇一五年[文春文庫、二〇二三年])という本で書いたように、霊的治療が心理療法の祖先であり、親戚であるからにすぎない。僕が真に好きなのは臨床心理学であり、心の臨床をより深く理解するために、シャーマニズムを参照しているのが本当のところだ。
同じように、僕はAIによるビッグデータ分析に興味があるし、ChatGPTについて書いたこともある。だけど、それは未来の心理支援にそのような情報処理技術が必ずや大きな影響を与えると思ったからだ。行政による予算配分プロセスについて調べたり、現代のリベラリズム政治についていろいろと読んだりもする。これもまた、心理士の仕事はそれら現実的な政治的・経済的権力によって枠づけられているからである。
ようは、臨床心理学オタクであり、心の臨床マニアなのである。僕の関心はものすごく狭い。とにかく臨床心理学について考えていたいし、話していたい。というか、どうしてもそうなってしまう。そう思っているから、一般書を書くときはどうしたら読者と接点をつくれるかに頭を悩ますし、他分野の学者や作家と対談をするときには何の話だったら盛り上がれるのかに神経をすり減らす。
ああ、嫌になる。なんでこんなにマニアックなのだろう。自分のどこかに普遍的な人間精神はないものだろうか。そんなことを思い悩みながら、ここ数年は仕事をしてきた。
しかし、である。ところがどっこいだ。
この本ではそういう苦悩は一切消し飛んでいる。僕は自由気ままに、なんの遠慮もなく、心の臨床オタクを丸出しにしてこの対談に没頭した。なぜなら、対談相手である斎藤環さんが、僕なんかよりもずっと年季が入り、比べものにならないくらい気合が入ったガチオタクだったからだ。
どの本の話をしても、斎藤さんは全部読んでいる。どの治療法の話、どの病気の話をしても、斎藤さんは全部押さえている。どんなマニアックな話題でも、斎藤さんはジャストミートで打ち返してくれるのだ。もしかしたら、僕がオオサンショウウオの話をしたとしても、斎藤さんならそれを心の臨床を考えるうえでの重要な話題として位置づけてくれたかもしれない。そんな期待を抱かすくらいに、パーフェクトな対談だった(僕にとっては)。
オタクがガチオタクに出会う。こんなに素晴らしいことはない。思う存分好きな話をして、ただひたすらに愛の対象について語り合う。僕は人生で初めて、完璧に話が合う人と出会ったのだ。
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重要なことは、これが「人生で初めて」の体験であったことだ。
なぜだろう?
心の臨床界隈にはたくさんの人間がいるわけで、僕の身近にもたくさんの心理士がいる。それなのに、ここまで話が合う人はいなかった。それは心の臨床界隈、あるいはもっと平易な言葉で言えば「メンタルヘルス界隈」の本質と関係している。
メンタルヘルス界隈とは、その名の通り、心の問題やケア、回復に関心を寄せる人たちのふんわりとしたコミュニティである。最近は政治でも心のケアがテーマになるし、芸能ニュースでもトラウマについて報道されるように、メンタルヘルスは社会の大問題になっているから、この界隈は日に日に巨大化している。
だけど、よくよく見てみると、それは決してひとまとまりの団結したコミュニティではない。むしろ、小さな村たちの集合体である。
そこには、精神科医や心理士、看護師やソーシャルワーカーのような専門家たちの村があり、それはさらに精神分析、認知行動療法、オープンダイアローグ、生物学的薬物療法などの学派村に分割されている。あるいは、病院、学校、児童相談所、企業などなどの現場村にも分かれている。
それだけじゃない。当事者たちの村もある。さまざまな障害や病気ごとの村があり、例えば依存症一つとっても何を対象にしているかによってさまざまな村がある。
行政やNPOなどの制度設計やコミュニティづくりに関心を持つ村もあれば、心の問題を学者として研究したり、出版を手伝ったりする人たちの村もある。Twitter(現X)やYouTubeでメンタルヘルスについて発信している人たちの村もあるだろう。そして、そのような活動を通じて生産された情報や知を受け取る賢い消費者たちの村だってある。
メンタルヘルス界隈には膨大な小さな村たちが点在している。それらはときに重なり合うこともあるし、交流したり、連携したりすることもあるが、基本はお互いのことをよく知らない。村と村は遠く離れていて、お互いをパラレルワールドのように感じがちで、ときには反目し、いがみ合ったりもする。
ここがこの本のポイントだ。
メンタルヘルス界隈は基本みんなマニアックなのだ。それぞれに専門分野があって、それに没頭している。
僕も斎藤さんも例外ではない。僕は心理士村の住民で、斎藤さんは精神科医村の住民だ。僕は精神分析村ですみっこ暮らしをしていて、斎藤さんはオープンダイアローグ村とかひきこもり支援村の顔役である。臨床家としての僕らは、それぞれの専門分野にマニアックに没頭する職人でもある。
だけど、同時に僕と斎藤さんにはオタクの側面があった。つまり、自分の専門分野についての歴史を知り、全体のなかでの位置づけを知りたいという欲望があった。ガンダムオタクとは、特定のガンダムをただ愛でているだけでは満足できず、ガンダムシリーズの歴史を知り、ガンダムと関連するアニメや物語を幅広く知りたいと願う人であることを思い出すとよい。
心の臨床オタクであること。それはマニアックな臨床家であると同時に、自分がいる村を俯瞰して、広い社会のなかに位置づけたいという欲望を持つことである。だからこそ、斎藤さんは精神科医であると同時に批評家としての活動をしてきたし、僕は臨床心理学と並行して医療人類学を学んできた。
これが人生で初めて完璧に話が合ったと思えた理由だ。
オタクがガチオタクと出会った。心の臨床を広く俯瞰して語り合える人と出会った。
そこで語られているのはもちろん、あくまで僕らの見方であり、ほかの見方はありうると思う。それでも、そういう話を思う存分できる相手は少なくとも私にはこれまでいなかった。だから、自分の興味関心を語れるだけ語ってみようと思って、できたのがこの本なのである。
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以上がこの本の成り立ちである。
まえがきとしてはこれで十分なのかもしれないが、少しだけそこで話された中身について説明をしておきたい。
もしかしたら幾分冗長になってしまうかもしれないが、僕らが何を話し合おうとしていたのか、その枠組みを示しておくことは、このオタクな対談を理解するうえで役に立つはずだ。
それじゃあ、何が問題になっていたのか?
二つある。
振り子とブリコラージュだ。(つづく)
[書き手]東畑開人(臨床心理士・白金高輪カウンセリングルーム主宰)