固定観念“ふつう教”に抗する
何が正義で何が不正か、何が正気で何が狂気か。村田沙耶香はそれらを絶えず反転させながら、生(性)老病死のタブーに切りこんできた。その小説を読む者は、つねに意識を揺さぶられ、自分の固定観念に気づかされる。「特定の正義に洗脳されることは、狂気ですよ」これは著者の「殺人出産」からの一節だ。村田の作品世界では、国家から町の共同体、友人グループに至るまであらゆる「集団」が、政権下の法や、ムラの掟や、時代の空気に従え、と人びとに迫ってくる。集団が望むのは同化であり、盲従であり、思考停止だ。そうして「狂って」しまえば楽ですよ、保護されますよ、と。ディストピア機構が個人の意思をつぶす時の常套手段だ。
そうして「~するのがふつうだ」と刷りこんでくる“ふつう教”に抗する人々を作者は描く。短編集『信仰』でもそれは同様だが、更にひねりを効かせた作品が多い。
表題作では、語り手の三十代の女性「永岡ミキ」が同窓生からカルト宗教の勧誘を受ける。とはいえ、それは入信の誘いではなく、カルトビジネス、つまり騙す側へのリクルートだった。
カルト宗教、スピリチュアルグッズ、マルチ商法、陰謀論。これらと、何百万円もするブランドの皿や高額エステに入れ込むのはどこが違うのかと、本作は問いかける。このような観点の転換なら前作にもあったかもしれない。
これを本作はもう一回反転させる。ミキは幼い頃から高額な商品やセミナーなどのインチキを片っ端から見抜いて、人びとを「現実」に引きもどすのを信条にしていた。しかし、妹は「お姉ちゃんの『現実』って、ほとんどカルトだよね」と離れていった。要は、パワーストーンを買う人たちがその価値を疑わないのと同じで、ミキも「現実」の正しさを振りかざす“現実教”にはまっていたのだとわかる。
「生存」は、百年余り前に発表されたローズ・マコーリーの『その他もろもろ ある予言譚』の現代発展形とも言えるだろう。『その他…』はハクスリーの『すばらしい新世界』の先駆けとも言われるディストピア小説だが、人間が知能でAからC3までにランクづけされる。「生存」は65歳になったときの「生存率」がAからDランクで予想評価される未来日本を描く。受験戦争イコール生存戦争という完全なメリトクラシー社会。現在「クミ」はCマイナス、恋人はAだ。クミはランク上昇を諦め、「野人」になることを選ぶ。こうした階層の文明的乖離は「土脉潤起(どみゃくうるおいおこる)」でも描かれる。
同編や「書かなかった小説」には、旧来の結婚や生殖の形をとらず、女性数人で生活する家庭が描かれる。後者の編で「夏子」が同居するのは、家電店で調達した自分のクローン「夏子B」から「夏子E」の4人だ。他者を排した究極の同質家庭では、会社勤めはAとC、家事担当はB、精子提供による妊娠出産はD、サポート係はEが担当。合理的な分担生活が始まるが、自分5人の間でも性欲や上下関係、不信、疑心などからは自由になれない。
作者は男女の結婚、子作り、家族内のジェンダーロールといった既成概念を打ち破る作品を書いてきたが、本書はこうした疑義をも自ら批評している。著者本人による村田沙耶香評論ともとれる大胆な一冊である。