書評

『シリーズ・グローバルヒストリー3 両岸の旅人: イスマイル・ユルバンと地中海の近代』(東京大学出版会)

  • 2024/06/18
シリーズ・グローバルヒストリー3 両岸の旅人: イスマイル・ユルバンと地中海の近代 / 工藤 晶人
シリーズ・グローバルヒストリー3 両岸の旅人: イスマイル・ユルバンと地中海の近代
  • 著者:工藤 晶人
  • 出版社:東京大学出版会
  • 装丁:単行本(324ページ)
  • 発売日:2022-06-11
  • ISBN-10:4130251732
  • ISBN-13:978-4130251730
内容紹介:
19世紀の地中海を舞台に国や地域を越えて活動しつつも、人びとの記憶から忘れられた一人の人物が残した言葉からつむぐグローバルヒストリー。ヨーロッパの植民地支配、キリスト教圏とイスラーム圏の相克、そして、奴隷制と人種主義といった現代世界に影を落とす近代史上の大問題をとらえかえす。

ユルバンからたどる地中海近代史

戦後十年経ったころの歌謡曲「カスバの女」には「ここは地の果てアルジェリア どうせカスバの夜に咲く」という切ない歌詞がある。極東の日本人には「地の果て」かもしれないが、アルジェリアは一九六二年にフランスの植民地支配を脱した北アフリカの独立国である。

一九世紀にあって、地中海周辺の人々は政治、経済、文化の大きな構造変化を経験した。トクヴィルやマルクスと同じ時代に生きた人々のなかに、仏領アルジェリアの官吏となり、栄達も望まれながら、日陰の人で終わった男がいた。

一八一二年、フランス出身の商人の父と黒人奴隷の血をひく母との間に南米の仏領ギアナに生まれたイスマイル・ユルバンは、波乱にとんだ生涯をおくったらしい。八歳でフランスに渡り、南仏のマルセイユの寄宿学校で教育を受け、数年後にはリセ(高校)で学んだという。富裕な商人の私生児としては十分すぎる学歴であった。

一八歳のとき、ユルバンはギアナに帰郷し、生誕の地を再訪した。そこで「祖母のもとにいた奴隷女が、大きな森のなかで初めての愛の陶酔を教えてくれた」と正直に告白している。経営者として奴隷制を肯定しながらも、肌の色による差別には落胆したらしい。数カ月の滞在の後、ふたたびマルセイユをめざし、二度と生地の土をふむことはなかった。

やがて友人の紹介でサン=シモン主義の思想を知り、パリにいる思想運動の指導者たちに会うことを熱望するようになったという。

「私は商売に向いていないと日々感じるようになっていたが、サン=シモン主義者の著作を読み、心から惹きつけられたのだった。各人にその才に応じて、その才には各人の働きに応じて。出生の特権が刻み込まれた社会で不遇をかこつ者にとって、これ以上に熱狂をかきたてるものはない」

ここには改革思想の一種にはおさまりきれないものがあり、「サン=シモン教」という宗教でもあった。新参の伝道者のなかでも、ユルバンは「私の信仰の純粋さは際立っていた」という。

後年、エジプト滞在中の二二歳のとき、ユルバンはイスラームに入信した。改宗の動機は恋人との死別であったという。とはいえ、この人物のなかでは、教義よりも信仰心という魂の活動が傑出していたように思われる。

これらの期間にアラビア語の習得に心を砕き、やがてフランス軍が占領するアルジェリアの地で通訳として働くことを志す。従軍通訳として経験を積み、三三歳のころ陸軍省本省の事務官として採用され、一八七〇年に退職するまで植民地官僚として歩む。こうしてアルジェリアとフランスの間で、西地中海の両岸を往復する旅人の生活がくっきりとしてくる。

このようにユルバンという人物の略歴をたどるだけで、近代史上の大問題が一人の人生のなかで重なりあう様が浮かび上がる。そこには、奴隷制と人種主義、キリスト教圏とイスラーム圏の相克、ヨーロッパの海外支配などの諸問題があった。

ユルバンは決して英傑ではなかったが、文筆活動を通じて彼にとっての「現代」を後世に伝えている。まさしく凡庸なる「時代の寵児」として見直されるに値する人物であり、それを発掘した著者の見識に敬服したい。
シリーズ・グローバルヒストリー3 両岸の旅人: イスマイル・ユルバンと地中海の近代 / 工藤 晶人
シリーズ・グローバルヒストリー3 両岸の旅人: イスマイル・ユルバンと地中海の近代
  • 著者:工藤 晶人
  • 出版社:東京大学出版会
  • 装丁:単行本(324ページ)
  • 発売日:2022-06-11
  • ISBN-10:4130251732
  • ISBN-13:978-4130251730
内容紹介:
19世紀の地中海を舞台に国や地域を越えて活動しつつも、人びとの記憶から忘れられた一人の人物が残した言葉からつむぐグローバルヒストリー。ヨーロッパの植民地支配、キリスト教圏とイスラーム圏の相克、そして、奴隷制と人種主義といった現代世界に影を落とす近代史上の大問題をとらえかえす。

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2022年8月6日

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