イスラム神学と現代文明ニヒリズム対比
中田考氏は篤信のムスリムでイスラム研究者。そして本書は神学書。神学の本を書く日本人は貴重だ。神学は、神が存在し聖典の内容も正しいと前提して、この世界を統一的に理解する試み。中味は哲学だが信仰の裏打ちがある。イスラムでは今も神学は信仰の基軸だ。本書の副題は「現代一神教神学序説」。ユダヤ教、キリスト教、イスラムの三つのアブラハム的≪啓示唯一神教の視座≫に立ち、現代世界が混迷するありさまを鋭い筆致で描き切る。
目次は序章に続き、言葉/人間/宇宙/神、の5章構成。イスラムの古典や近現代の先端的な議論を縦横に参照して論じて行く。一神教の思考スタイルがすんなり頭に入る。
一神教の神は、天地や人間を造った創造主。完全な知識と意志と行為能力をもつ。人間は神のおかげで存在している被造物で、知識も行為能力も不完全。意思すら神に左右される。イスラムは、ムハンマドが「最後で最大の預言者」と信じる。ムハンマドの受けた啓示をまとめた聖典がクルアーン。人類に与えられた契約(命令)=イスラム法である。
天使は光から、ジン(幽精)は火から造られたとイスラムは考える。そのジンが≪天使たちの会議を盗み聞き≫するので流星で追い払う。ほかにもイスラムの意外な常識や豆知識が盛り沢山で読んで楽しい。
こうして読み進むと、イスラム神学の壮大な思索の世界と、混迷する現代文明のニヒリズムとの鮮明な対比が際立ってくる。現代文明は西欧キリスト教文明のなれの果て。資本主義や民主主義やナショナリズム、とりわけ≪科学主義≫のことだ。
科学がキリスト教を変えた。
キリスト教神学はアリストテレス哲学をアラビアから輸入した。天と地上は別世界で、別の法則に従うと論じる。そこへ科学が始まった。アラビア由来の実験とギリシャの思弁を結びつけて、天体も地上の物体も同一の法則に従うと証明できた。ニュートン力学の画期的成果だ。
キリスト教会は打撃を受けた。
旧約は≪神は天にいま≫す(コヘレート5章)と説く。「主の祈り」も≪天にまします我らが父よ≫(マタイ6章)と唱えてきた。でももう天に神はいない。なあんだ。人びとは教会より科学が正しいと思った。一九世紀には宗教より科学を崇める≪科学主義≫が主流になった。
科学はモノの秩序を説明するが、生き方を教えない。人間は神のいないがらん堂の宇宙に置き去りだ。
ニーチェは『力への意志』で≪20世紀と21世紀をニヒリズムの世紀≫だと予言した。神が死んで≪人間には意味や目的がなく…価値が全て失われる≫のがニヒリズムである。
ニヒリズムは三段階で進むと著者は言う。現象だけがあって意味や価値を求めても無駄だと幻滅する/現象は体系的な全体なのではと思うが≪全体性の一元論への信仰≫を喪失する/≪生成変化する世界の全体を迷妄とみなす≫、の三段階だ。現代文明の迷走に当てはまっている。
ニーチェは、ニヒリズムにも受動的/能動的の二種あるとし、能動的ニヒリズムで雄々しく生きればよいとした。ニーチェは牧師の息子でキリスト教のことがよくわかっていた。教会の権威が失墜したあと、代わりに現れた資本主義もナショナリズムも所詮は世俗の秩序にすぎないのだ。
著者は言う。この日本に≪ニヒリズムの最終形態は…姿を現しつつある≫。科学主義のイデオロギーこそニヒリズム。世界でも日本でも猛威をふるっている。とは言え科学は、宇宙全体を把握できない。しかも神は宇宙の外にいる。イスラムの信仰は科学主義に抗する武器になる。
その信仰をどう手にできるか。
≪イスラーム神学の第一命題「宇宙のどこにも神はいない」≫の≪「無神論」≫から出発しよう。≪その先にしか、神に至る道が開けないように、この「世界」の生が全てただの暇つぶし…に過ぎないことを悟った先にしか、意味のある生はない。≫著者はニヒリズムと対決する。
≪神がアダムの腰から…子供たちを取り出し…アッラーが自分の主であることを証言させた≫とクルアーンにある。つまり神は、人類全員の誕生を予定している。イブラヒムやナディアや…のような≪固有名を授かった「自己」こそが…神に帰依する義務を課された人間≫である。この神は宇宙の外にいる。宇宙は空っぽでも神はいる。その神と人間は科学を超えたやり方で繋がっている。これがイスラムの信仰である。
本書はイスラムの信仰の強さの秘密を解明する。「神が死んだ」あとの科学主義の時代に、なぜイスラムはキリスト教より熱烈な信仰を保てるのか。その答えが本書にある。
ネット社会では情報が情報を複製し、生成AIがその速度をさらに増している。情報のなかには価値も意味も、その根拠もない。フェイクもリアルもない。これがニヒリズムでなくて何だろう。この情報の渦巻きの外にあって自分の生きる理由を与えてくれるかもしれないのが、イスラムの「真の神」。若い世代の人びとがイスラムに惹かれる理由はこれだ。力のこもった良書である。