本質は“真のグローバリズム”
イスラーム学者でムスリムの中田考氏の論文集。新旧二五編の論文が、イスラームの本質を多面的に描き出している。中田氏がまず強調するのは、西側の知識の歪みだ。オリエントとはかつて、イスラーム世界のことだった。そこにインドや中国、日本も加えて「東洋」とひとくくりにした。多様な世界に「非西欧」のレッテルを貼った。この歪みを告発したのがサイード『オリエンタリズム』。だがイスラームの地域研究者はイスラームという宗教に正面から向き合うのを避けたままだ。それで歪みを正せるのか、と厳しく著者は問いかける。
本書を通じて中田氏は、十字軍の時代の大法学者イブン・タイミーヤに光を当てる。独自の言語論に基づき、当時の法学や神学がイスラームの原則から逸脱していると批判した。その業績は傍流にとどまったが、イスラーム世界を現代に復興するヒントに満ちているという。
そして本書の山場は、イスラームの政治論だ。古典イスラーム国法論、現代スンナ派政治思想、現代シーア派政治思想、現代カリフ論を順に論じて行く。目を開かれる指摘が多い。たとえばイスラームに秘伝はなく、クルアーン(コーラン)とハディース(ムハンマドの言行の伝承)にすべて記されている。イスラームの宣教が届かず無信仰のまま死んでも救済される可能性がある、などなど。
シーア派とスンナ派はどう違うか。シーア派は、預言者ムハンマドの後継者はイマームで、アッラーの選んだ無謬(むびゅう)の存在だとする。スンナ派は、ムハンマドの後継者はカリフで、選挙か前任者の指名で選ばれ、世俗の統治者だとする。違いはあってもイマームもカリフも、ウンマ(イスラーム共同体)にただ一人の存在。そしていま不在。それでもイマームやカリフは存在すべきで、それ以外の統治者は存在してよいと言えないのではないか。これが、イスラーム政治論の最大の論点だ。
ワッハーブ派を興した法学者イブン・アブドゥルワッハーブは一八世紀半ば、豪族イブン・サウードと政教盟約を結んだ。これが発展して、サウジ・アラビアができた。ワッハーブ派はイブン・タイミーヤの思想に依拠した厳格派でありつつも、ハンバリー派に属すとして、スンナ派の一部に収まっている。
ジハード(聖戦と訳すが、異教徒の攻撃に抗する努力)は、カリフが命ずるもの。カリフが不在では、ジハードは実行できない。内乱(イスラーム内の政争)にも適用できないはずでも、いま政権を握る為政者こそイスラームの敵だ、という考え方が現れた。「革命のジハード論」だ。世界の武装勢力に影響を与えているのがこれである。西側の影響を受けイスラーム法をないがしろにする現政権を、ジハードの名で攻撃する。
キリスト教世界とイスラーム世界は、どこが違うのか。
イスラームこそ真のグローバリズムだ、と中田氏は言う。イスラームはそもそも普遍主義。人類を単一の法共同体にまとめることを目標にする。ただイスラームは、信仰を強要しない。ダール・アルイスラーム(イスラームの家)は、ユダヤ教徒やキリスト教徒や…の信仰と自治を認める。商法の遵守や納税を求めるが、家族法や刑法は宗教ごとにばらばらでよい。移動も自由。国境で人類を区画し、人間が定めた別々の法律を強制するキリスト教徒のやり方(ナショナリズム)と、正反対だ。中田氏の持論である「カリフ制再興」も、この文脈に置かれると意味がよくわかる。有益で本格的なイスラーム研究、とくにその政治論を日本語で読めることは、本当にありがたい。