だれのモノなのか、難問の数々
日本で平和に暮らす我々は、「所有権」は国から保障されていると漠然と考えている。掌の中のスマートフォンや茶碗は確かに自分のもので、盗まれれば警察が取り返してくれる、と。ところが人口が増え「モノ」が稀少になり、技術が進み所有の対象が無形になると、所有権は輪郭が怪しくなる。
本書では冒頭、近ごろとみに席間が狭くなった旅客機のリクライニングの例が挙げられている。航空会社は「譲り合ってどうぞ」と言うだけでルールを明示しない。席数を増やしたいがために客に空間の所有権を調整させる「戦略的曖昧さ」だ。本書にはそれに類する例を無数に挙げ、考え方の凡例を多様な角度から示してくれる。
著者らはアメリカの著名大学のロースクールで教鞭を執る不動産法の権威と環境法の専門家。暮らしに未知の領域が加わるたびに所有権は変容を余儀なくされてきたという。そこで「根拠」と「ツール」を組み合わせ、一見解決不能なジレンマを解くのが政治や裁判の場なのだと唱える。
根拠には六つある。古くから知られる「早い者勝ち」と「占有は九分の勝ち」、「労働への報い」と「付属」、「自分の身体は私のもの」「家族のものは私のもの」だが、時代により逆の論拠がせり出してきた。ツールには事前と事後、ルールと規範等がある。
こんな例がある。バリー・ボンズが73号ホームランを打った日、外野席で待ち構えたポポフはいったんボールをミットに収めたが、周囲の観客に押され逃してしまう。それを拾ったのがハヤシだ。ボールは高値で売れる。ポポフは裁判でハヤシを訴え、先の占有者である自分に所有権があると主張した。
ハヤシはボールの事実上の占有者で、ファン間の慣行では支持されている。裁判官はボールをオークションにかけ、売上金を折半すべきだとの判決を下した。「事後的アプローチ」だが、他の正当化も可能だ。労働に報いる立場ではボンズこそ所有権を持つ。著者たちはさらにポポフこそがあるべき所有者だと主張する。
野球場ではボールに直撃される事故で1年間に1750人が怪我している。ミットを準備しホームランボールから周囲を守るポポフのような観客を増やすよう誘導することが司法の目的であり、この場合は「事前的アプローチ」で所有権を設計すべきだとする。ちなみにポポフは弁護士費用で破産してしまったという。所有権にかかわる紛争は当事者が解決すべきゆえんだ。
さらに私的所有権で処理しきれない難問として、共有資源の乱獲にかかわるコモンズの悲劇やシェアエコノミー、削除権限がアマゾン等に属する電子本も論じられる。近年のアメリカでは遺産税が狙い撃ちされ、課税最低限が60万ドルから2340万ドルまで引き上げられた。「家族のもの」の永続化が生じ、最富裕層の1%が富の40%を保有している。ロビイストがもたらした恐るべき所有権理解の歪みだ。
日本で喫緊の所有権問題として、昔ながらの街の記憶を自治体や建設会社が壊す巨大再開発がある。街の景観は本書にあるコンドミニアムのような「自由共同財産」というより、住民の人格を支える無形資産に位置づけられそうだが。