書評
『帰っていいのよ、今夜も: 新・愛人時代』(朝日新聞出版)
右往左往する男たち
読んでいてやたらうなずいたりほくそ笑んだりしてしまう本がある。そのての本が、というより読書が、よい読書か悪い読書かはさておくが、スタンダールの『恋愛論』を読んで、にたついたり、ほくそ笑んだりできないのは、そこに鋭い自己と他者への批評と毒がこめられているからだ。“新・愛人時代”とサブ・タイトルのついた『帰っていいのよ、今夜も』を、一章、二章と読みついで、うなずき、にたつき、ほくそ笑んだ男女の数は数えきれないだろう。ところが、途中から顔面がこわばり、やばいぞ、これは、と立ちどまり、自分の行為をふり返させられ、身につまされて、もう読むのはやめとこう、と思った男女の数もそのうち半分くらいはいるかもしれない。
この本は、二号さん、おめかけさんでなく、生活能力をもった女性たちの愛人生活を、実在の彼女たちに取材して、若干の脚色のうえ、一九八七年の「週刊朝日」に連載されて好評だったのを一冊にまとめたもの。八七年といえば十年以上前になる。風俗の変化は早く、激しい。ここに語られた二十の愛人生活ドキュメントも、いまや日常茶飯事と化した感がある。「愛人」の大衆化だ。彼女たちは、ほんの十年前は愛人エリートだった。
中からひとつ紹介してみる。
男は、週一回、女のアパートへ通うためには体力を温存しておかなければならないので、妻とのセックスを自重しはじめる。妻にピンとこないはずがない。
ある日、街で、女はいつもより二センチ高いハイヒールのせいで足もとが乱れ、男の腕に手をかけた。いつも避けているのに、なんとなく腕を組んだ形になった。
二、三歩進んだ時、男の歩みが止まった。正面に青ざめた女の顔。男の妻だ。
女はそのままひとりアパートに帰るが、男の封筒を持ったままだったことに気づく。あすの提出書類だといっていた。女は男の電話を待つ。
妻をなだめつつ家に帰った男はめずらしく風呂の準備をして、一緒に入ろうと誘う。もちろん妻は断る。男は五分もしないで出てきて、ああ、いい湯だった、きみも入れよ。妻が入る。そしてわざと大きく水道の蛇口をひねる。十かぞえて、裸のままとび出し、ちょうどダイヤルを回しおえた夫の手から受話器を奪って、耳にあてる――。
ひとつのエピソードは二つのパートにわかれていて、パート1は、女、男、妻といった抽象的人称を使い、文体は短篇小説タッチで描かれる。パート2はそのエピソードの種明かし、後日談で、例えば、望月佐智子さんは二十四歳、コンピューターのソフトを扱う会社に……と取材メモふうに語られる。空想をふくらませて読んでいたエピソードが突然しぼむわけだが、これがなかなかいい。パート1の会話は徹底してカギかっこなし。2では、ヒロインの会話だけをカギかっこでくくって、肉声もどきに、と工夫をこらしている。
ここに出てくる右往左往する男たちの姿がいい。つまり、肉声を禁じられ、地の文に埋められてしまったままの男たち。彼らのうめき声がきこえる。
先人の箴言(しんげん)をひとつ。「生涯浮気をしないということは一向平気だ。しかし、死んでから妻を瞞したこともない男として神の前に出るということは、なんといまいましいことだろう」(ルナール『日記』)
もうひとつ、これは自前。「愛人を持たずにすますことも、愛人を持つのと同じくらいの苦労と価値がある」
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