確認された間違いを捨てる
評者は新型コロナの専門知識を持たないが、それでも昨年来の政府発表やマスコミ報道には多く不満だ。昨春、パチンコ店の営業がクラスターを生むとの判断から、複数の自治体が休業要請に応じない店名を公表した。データの蓄積がない当時なら、人が群れ媒介するモノに接触しただけで感染するとみなした行政にも言い分はある。しかし口からの飛沫と浮遊する粒子による空気感染が伝染の大半と分かってからは、距離を取り黙って遊ぶパチンコは、マスク着用の義務づけと換気に努める店に限っては名誉回復すべきだった。その一方で、フェイスシールドを着け息の粒子を放出しているタレントが、いまなおテレビに登場している。
正体不明の現象につき犠牲を払いながらもデータが取得されていく過程で、確認された間違いを着実に捨て「より正しい」説を共有しない社会は、あるべき状態へとソフトランディングできない。そう危惧していた昨年10月、前作が出版された。半年余を経て出版された続編と併せ、励まされた。
著者は呼吸器系ウイルス感染症の第一人者。世界最大の感染症対策センター(米CDC)での研究を経て2003年のSARS流行時には台湾へ派遣された経験を持ち、1918年のスペイン風邪のパンデミックにつき詳述したA・W・クロスビー『史上最悪のインフルエンザ』(みすず書房)の訳者でもある。
とりわけ共感するのは、「ゼロリスクを追求していくと社会は窒息」するとみなし、専門家は時々刻々積み上がるデータを元に「この場合、こんなリスクがあります」とリスク評価を明言せよという主張だ。「可能性がある」だけでは万事が規制されてしまう。首長の役割は「オレが責任を取る。(小)学校は休校する必要はない!」「葬儀でのお骨拾いは何の問題もない!」と断言することだ。それだけにデータ分析には国が予算を投じるべきで、ワクチンを打った人たちを対象に抗体価の変動も「大規模なスタディー」を講じなければならないとする。
もちろん新型コロナは特効薬がなく重症化すると治療が長引き、治っても後遺症が残る。自動車事故に譬(たと)えれば、死亡率は決してゼロにならない。しかし各人が事故回避のすべを身に付けた社会では、納得ずくで自動車と共存している。コロナと共存しうる社会を目指すには、同様に「正しく恐れる」ことが必要になる。
リスク削減効果が低いと著者が考える対策には、フェイスシールド、背丈の低いパーテーション、飲食店でのテーブルや椅子、ドアノブのアルコール消毒、屋外でのマスク着用がある。大皿料理の提供停止や運動会でのリレー禁止はやりすぎだという。いずれも限りなく小さな「可能性」があるにすぎず、そう確認された後にも解除されないままになっている。マスクから鼻を出すのは当人が感染する可能性を高めるだけで周囲には害がない、外に出て、マスクをはずして深呼吸しようと言われるとホッとする。
専門家にも多様な見解がある。「8割おじさん」にも「健全なる懐疑」を差し向けねばならない。医療供給体制の構築に長期戦略を持ち合わせない内閣には、是非とも読んでもらいたい連作だ。