選択的シングルマザーになることを決意した38歳のアメリカ人ジャーナリストが、非正規の精子提供の世界へ自ら飛びこむと、そこには意外な現実があった。期待、偏見、挫折……
医師や精子ドナー、そして精子提供で生まれた子へのインタビューを通じて見えてきたもの、そして実際に自分も非正規の精子提供を受けてから体験したこと。なぜ女性たちはリスクを承知で非正規のドナーを選択するのか。
3年にもおよぶ妊活生活を赤裸々に記録したルポルタージュ『わたしはドナーを選んでママになる』より、訳者あとがきを抜粋して紹介する。
非正規の精子提供ルポに挑む
本書は著者ヴァレリー・バウマンが自身の妊活を赤裸々に綴り、アンダーグラウンドの精子提供の世界で出会った関係者(ドナー、レシピエント、提供精子で生まれた子どもたち)や専門家(弁護士、学者など)へのインタビューをまとめたものだ。子どもの頃から愛情たっぷりに弟たちの世話をしてきた彼女は、いずれ母親になる気満々だった。ジャーナリストとして仕事に邁進し、ニューズウィーク誌の上席調査報道記者になった。キャリアにおける目標を達成した38歳のとき、ふとその言葉が口から転がり出た。「赤ちゃんを産みたいな」妊娠するためのタイムリミットも迫っている。だが、どうやって? 結婚の予定どころか、彼氏もいないというのに。
我らのヴァレリーはあきらめない。選択的シングルマザーになる決心をし、精子バンクのウェブサイトを閲覧することから始めた。無料で閲覧できる範囲でも、ドナーの顔写真、身体的な特徴、経歴などを確認できる。
精子バンクは、食品医薬品局(FDA)の監督のもと、精子提供者(ドナー)に対して厳格なスクリーニングを行い、提供を受ける人(レシピエント)の安全を守っている。だが、利用するには多額の費用がかかり、ドナーは匿名が原則で、実際にどんな人物かを知ることはできない。しかも、生まれた子どもは18歳になるまで生物学上の父親であるドナーに面会を求めることができないと決められている。
ヴァレリーには精子バンクを利用するだけの預金があったが、実際にドナーに会って、自分の子どもの生物学上の父親になる人物の人柄を確認したかった。それに、生まれた子どもが小さなうちから面会してくれる人がよかった。
そこで、正規の精子バンクを通さずに〝インターネットで見つけた、非匿名の、フリーランスのドナー〟から精子をもらい受けて妊娠を目指すことにする。彼女が足を踏み入れたのは怪しくも興味深いアンダーグラウンドの世界で、記者魂にも火がつく。
フェイスブックにはドナーとレシピエントが情報交換をできるコミュニティがいくつもあり、精子バンクの利用ができない同性カップルやLGBTQ+の人たちの受け皿にもなっている。
たいていのコミュニティは〝スーパードナー〟と呼ばれる、何十人、何百人もの子どもを誕生させた実績のあるベテランのドナーが世話人をしている。彼らは毎晩睾丸を冷やし、節制し、レシピエントに良質の精子を届けるべく努力している。もちろん、純粋な人助けのためではなく、単に多くの女性と性行為をするためにドナーをしている人もいるし、自分のライバルになりそうなドナーをコミュニティから追い出し、性行為目的のドナーがいると告発する女性の声を握りつぶす人もいる。
だからといって、ドナーがやりたい放題の気楽な立場かといえば、そうでもない。セックス依存症になって苦しんだり、選択的シングルマザーを目指していたものの後になって経済的に困窮したレシピエントから子どもの養育費を求められたりする場合もある。
日本が抱える精子提供ドナーの問題
さて、日本ではどうか。病院で行う精子提供は、夫が無精子症の夫婦に、病院が募集したドナーの精子を提供することから始まった。現在では性別適合手術を受けて女性から男性になったり、身体的には女性だが性自認が男性だったりする夫婦にも提供されている。いずれにしても、法的に婚姻関係にある夫婦だけが対象で、ドナーは匿名が原則だ。だが近年、日本でもドナーで生まれた子どもたちの出自を知る権利を求める声が高まっている。そのため、将来的に身元を特定される可能性があると考え、提供をためらうドナーが増えてきた。現在ではドナーが不足し、希望しても病院で不妊治療を受けることができなくなっている。
次の選択肢として海外の精子バンクの利用があるが、渡航費や治療費がかかるため、日本でもSNSなどインターネットを介して精子提供を受ける選択をする人が増えている。
その理由や、そこで起きるリスクやトラブルはアメリカと同じだ。
原題の『Inconceivable』には〝想像もつかないこと〟、〝信じられないこと〟という意味がある。本書を読み進めていくと、精子の受け渡し方法や、ドナーとレシピエントの法的な関係、生殖補助医療の実際、提供精子で生まれた子どもの出自を知る権利、その子ども同士が互いの素性を知らずに結婚してしまう近親相姦の可能性など、まさに驚きの連続だ。
「conceive」自体には〝身ごもる〟という意味もあり、その前後に否定を表す「in」と可能を表す「able」があるので、〝身ごもることができない〟という切ない意味も込められているのかもしれない。
普段は前向きでパワフルなヴァレリーだが、彼女の妊活の道のりは過酷だ。弱音を吐きたくても、敬虔なカトリック教徒の母親には妊活していることを打ちあけることができない。純粋に恋愛対象の男性に振り回され、妊活とは別に神経をすり減らすこともある。
妊娠・出産は、女性が残酷なほど〝肉体的な〟問題を突き付けられる瞬間だ。社会的立場も、本人の努力もまったく関係がない。この女性ならではの焦燥や葛藤に、どうか男性も寄り添って欲しい。生殖補助医療の発展により、今までになかった選択肢が増え、様々な情報が溢れるなか、どこでどう折り合いをつけていけばいいのだろう。
伝統に縛られない、新しい方法で家族をつくろうとするひとりの女性の奮闘と記者魂に、ぜひ驚嘆していただきたい。
[書き手]佐藤満里子(訳者)