「正義を司る」ことが政治家の本分
今どき「不要不急の外出を自粛するように」とは、どこにいても耳にする。これまで当たり前だった「自由」が制限され、誰もが戸惑っているのではないだろうか。著者はフランスのロマン主義文学の傑作『アドルフ』で名高い。気が弱いが利己的な青年とひたむきに愛をささげる女性の悲恋の物語である。だが、小説家としてよりも政治思想家としてその筋では名を知らぬ者はいないという。近代自由主義の父祖の一人にあげられるのだ。21世紀の先進地域に生きる人間にとって「自由」とは空気のようなものである。だが、古代にさかのぼれば、それは奴隷ではなく、自由という身分であった。自由人とは主がいないことであり、自ら実践できることなのだ。ところが、近代人の自由とは享受すべき個人的権利であるはずだという。
この二種類の自由を混同したところに、フランス革命直後の不幸がある、と同時代の著者は指摘する。なるほど、古代人のあいだでは、市民団としては、和睦か開戦かも決められ、公職者の尋問、罷免、断罪、接収、追放、死刑執行にもあたった。だが、ひとりの人間としては、集団の意志にもとづいて、制約され、監視され、抑圧されていた。これを革命直後のフランス人は理解しなかったという。そこに、共和政の理想をかかげながら、やがてナポレオンの独裁を許すことになった理由があったのだ。
人間は弱くて脆いもの、と著者は語る。そもそも、古代の国々は狭い国境に押し込められており、たえず異民族の侵入に脅かされていた。だから、誰もが戦いによって安全と独立と生存を勝ち取らなければならなかった。公共に関わることは国家の力がものを言い、個人の意志などなかった。
ところが、近代人には、諸民族が孤立し敵対していた古代とはまったく異なる光景がある。国土ははるかに広大になり、膨大な数の人々がさまざまな社会組織のもとで暮らしながら、同じような知性を共有する。今や異民族の群れを恐れる必要はなく、戦争は重荷と思われるほどになったのだ。
もはや戦力による征服よりも、商業という合意で欲する物を手に入れる時代が近づいている。国土の拡張で公共の政治的課題が希薄になり、個人の自立に愛着するようになる。国政を担うのは代議制によって選ばれた者であり、選挙こそが個人の政治参加の舞台になる。それによって私人として自立し快適な時間を過ごせるのだ。
おそらく古代人は代議制の恩恵に気づいていなかった。国民に直接支持された古代の為政者は民衆の幸福を思うかのごとく「パンとサーカス」に配慮したのかもしれない。だが、個人的権利としての自由を享受する近代社会にあっては、政治活動の受託者は「正義を司る」ことが本分であるはずだ、と著者は唱える。幸福は民衆の個々人が考えることであって、政治家は耳触りのいい幸福を与えることを領分と錯覚するな、とも示唆する。
コロナ禍のせいで、近代的「自由」を享受していた者たちには得体の知れない危機感がある。だが、たえず異民族、自然災害、疫病(感染症)などに脅かされていたのが古代人の「自由」である。図らずも、世界史のなかの二つの「自由」が身に染みて感じられるかのようだ。